第拾弐話
――――はな。
深い情の込められた呼びかけで、はなは目覚めた。
はなの寝惚けた顔を覗き込んでいるのは、いつもと同じ格好のシン。微苦笑を浮かべ、まだ半分夢の世界に意識を残している様子の伴侶を静かに見つめている。
「起きたかい?」
「うぅ……」
「全く、仕方ないな」
シンは軽く溜息を吐いて、汚れ一つない巫女装束を纏ったはなを抱き上げ、膝の上に乗せた。朝の森の匂いが鼻から吸い込まれ、脳に伝わっていき、はなの意識を覚醒させていく。自然の匂いはシンの匂い。――愛しいヒトの、匂いだ。
はなが、ようやくしっかりとこちらを見たのを認め、シンは困ったような、呆れたような、それでいて嬉しそうな笑みを見せた。
「おはよう」
「……おはよう」
変わらない。普段通りの朝だ。
はなはシンの挨拶に応え、次いで視線を宙に漂わせた。
はなには見える。シンも見えている。姿なき精霊の影が。
「お願い……」
起きたばかりで掠れている声だが十分だった。
その声に応えた精霊たちが、はなを包みこんだ。淡い水色の薄い膜が全身を包んで、身を清めていく。
巫女の禊を終えた膜が透明な雫となり、パンっと音を立てて霧散すれば、澄んだ霊気を纏った巫女がそこにいた。
永いこと一人で神に仕えてきた巫覡が、なんと今頃になって妻を娶った。
そんな衝撃が山を騒がせたのも、もう随分と前のことである。
しかも、この婚姻は巫覡が主の言葉に従って成されたものではない。神の与り知らぬところで本人らは出会い、惹かれ、互いを愛し、結ばれた。驚愕たる事実である。
神も眷属の意志を尊重する形で結婚に同意したそうな。
といっても、巫覡の愛した娘は巫女としての並々ならぬ素質を有しており、神も力の強い眷属が増えたと大層喜んだらしい。
巫覡の妻となったはなは当然、人としての生を終えた。永久に近い時間を、これからは夫と共に生きていく。
それを悲しいとは思わない。全てを覚悟し、受け入れて、はなは嫁いだのだから。
麓の村々を見渡す、山の外れにある崖にやって来たはなは、人々が生活を営む平地を見下ろし、そっと瞼を伏せた。
「……兄様」
この婚姻に最後まで反対した兄。兄には、華族の娘が何を言うと何度も糾弾され、
それでも、はなは折れなかった。自身の意志を曲げず、結局は駆け落ち同然に、ここに来てしまった。
最初は別に構わなかったが、慣れない新しい暮らしが落ち着いて、冷静になってきた今になってみると、本当に馬鹿な真似をしてしまったという後悔の念が押し寄せてくる。
だから、最近はこうやって独り反省することが増えていた。無論、この行為に何の意味もない。だが、省みずにはいられなかった。もっと話し合っていたら、互いの気持ちを分かり合えていたら、と。
平地に広がる村々を見下ろし、風で衣と髪を揺らしながら、ひたすら合掌して念じ続ける。置いてきた家族が、どうか幸せでありますよう、無病息災でありますよう。
祈りに集中していたためか、夫が背後に近づいていたことに気が付かなかった。
「辛いか?」
「え……」
口調からは、憐みも苛立ちも感じられない。ただ、シンは問い掛けていた。妻の心境を。
はなは悲痛な面持ちで振り返り、そして、迷うように視線だけ眼下の麓に戻した。髪だけは気ままなもので、風に踊っている。
「……辛くないと言ったら、嘘になるわ」
「だろうね」
「でも私は」
「私は構わない」
「え」
シンは、信じられないと言いたげな妻に歩み寄り、華奢な肩の上に手を置いた。
「帰ってもいいんだよ、はな」
「な、何を言ってるの。もう私は」
「人に還ることも可能だ。私は、はなにそんなにも辛い思いをさせてまで、自分の傍に縛りつけようとは考えられない」
「っ……」
視線が揺れている。揺らがないはずの決心が、揺れている。
シンは、そんなはなの頭を撫で、優しく促した。
「帰るといい。本来在るべきところへ」
そう言いつつ、はなの背を軽く押した。足があっさりと一歩を踏み出し、上昇気流に乗って身体が一瞬だけ宙を舞った。激しい風に身を叩かれながら崖から落ちていく中、はなは不意に悟った。
自分は、どんなに願ったところで、彼と同じ存在にはなれない。どんなに覚悟を決めたところで、所詮それは移ろっていく人の感情なのだ。
はなは目を閉じて思う。
彼の傍には、いられない。
それはよく分かった。
でも……
気付けば目の前の光景は消え、黒一色の穴の中を、はなは落ちていた。重力に従って落下していく。
もしも、想いを告げなかったら?
この想いを共有しないままでも、自分はこうやって諦めきれただろうか?
身の内に秘めたまま、彼の気持ちを知らぬままでも、自分は諦められるだろうか?
答えは、とっくに出ている。
『だめ……!』
『私たちの
『どうして!? 幸福にもならず、幻想に浸りもせず、なんで人間は欲望を抱きながらも、他者のことを想えるの? 何よりも大切に思えるの? 自身の願いを殺してまで……!』
『分からない……分からないわ……!』
偽物の甘い世界を見せていた精霊たちの焦ったような、困惑したような声。
当然だろう。人という生き物の心は、複雑怪奇なのだ。人間自身でも理解が及ばない。だから、彼の心もそうだ。人に戻りつつある、彼の心も――!
全く、君という
穴の底に淡い光が見えた。
澄み切った川の色。綺麗な色の光に身を包んだシンが、落ちてくるはなを、苦笑しながら見上げている。
はなは、思い切り手を伸ばした。
この心を伝え、彼の心を知るために。彼女が成すことを許された、唯一の願いを叶えるために。
「シン……ッ!」
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