第肆話
開いた口が、塞がらなかった。
「すまない。驚かせたね」
そんな謝罪の言葉が聞こえたような気がした。
しかし、はなは正直言ってそれどころじゃなかった。
シンの、腕が、胴に回されていて。肩口に、シンの顎が、乗せられていて。
「今は山も寂しい時期でね。つい来てしまった」
彼が話すたびに、彼の、息が、首筋に当たる。彼の、匂いが、鼻孔を擽る。
だめだ。思考が全然回らない。
岩の如くガチガチに固まっているはなを、さすがのシンも不思議に思った。
「はな?」
「ね、ねぇ……」
「ん?」
「ち、近い……!」
「え? ……あ、ああ! すまない」
はなの真っ赤に染まった頬や耳を見て、ようやくシンも自分の行為の意味合いを理解する。嬉しさのあまり思わずやってしまったのだが、確かにこれはまずかった。慌てて腕を離し、彼女から距離を取る。
動揺を落ち着けようと口元を両手で覆っているはなに、シンは慎重に言葉を選んで問うた。
「はな……大丈夫かい……?」
「も、もう……これだから、シンは……」
「すまない……」
心からの、謝罪だった。
はなが、大きく息を吸って、吐いた。
「……うん。一応、もう平気」
「そうか……」
はなが後ろに佇むシンを振り返った。
「それにしても、なんでいるの? ここは夢よね? 違うの?」
「夢であることは否定しない、かな」
含みのある説明に、はなは眉を寄せた。こういうことは、はっきり言ってほしい。
「というと?」
「私は魂を肉体から離脱させて、はなの夢の中に入っている。だから、ここが夢であることは否定しない。けれど、私という存在が、はなの夢が生んだ幻でもない。私は本物のシンだ」
「ああ……そう、そうよね」
「はな? また顔が赤いけど、今度はどうしたんだい?」
「……いいの。気にしないで」
そうだ。幻という可能性もあったのだ。都合のいい夢という、可能性も。
けれど、現れたシンに抱き締められたとき、はなは本物だと信じ切って疑うこともしなかった。それが、なんとも恥ずかしい。
でも、それでも、シンに抱き締めてもらったという事実は、はなの胸を熱くさせる。胸の奥から、甘い炎の熱がせり上がってくるようだった。
「今は神無月だろう? 我が君も出雲に向かわれてしまってね。独りでいるのが寂しいんだよ」
「あ、そうか。出雲で神様はお話し合いをされるから……」
「そうそう。毎年、この月は留守番さ」
神無月に神々が出雲に集まり、話し合いをする。話としては有名だし、耳にしていたが、本当に行われているとは。ただの言い伝えにも、案外事実が隠れているものだ。
「それで、だ。はなに頼みがある」
「何?」
「今月は毎夜、ここに来るよ」
「……理由は? 寂しい、から?」
寂しい、と言って欲しかった。ほんの少し、期待していた。はなと一緒にいたい、と言ってくれるのではないか、と。
だが、現実はそう甘くはなかった。
「いや、それもあるが……この機会だ。夏に言っていた勉学、教えてくれないかい?」
「あ……そういうこと。……そうね、構わないわ。せっかくの機会だもの」
明らかに落胆したはなの返事も、シンは気にしていないようだった。
安心した様子で、良かったと笑っている。
まだ、シンは人間に戻り切っていない。もう少し自分とともに在れば、彼は人間だった頃の彼に、戻ってくれるだろうか。人間の彼を、自分は知ることができるだろうか。
「じゃあ、すぐに」
「ちょっと待って。ここには紙とか、書くものとか、ないわよ?」
「それなら問題ない」
シンがはなの前に馬手を広げてみせた。すると、一瞬でその中に筆が現れる。
「な」
驚愕のあまり、はなは言葉を失った。
シンは、そんなはなの反応が面白く、くすくすと笑みを漏らしながら教えた。
「ここは夢だ。ここでは、自分の考えていることが具現化できるんだよ」
そう言うシンの弓手に白い紙が握られ、視線の先に文机と円座が出現した。
「すご……」
「さ、よろしくお願いするよ? 先生」
長身なシンが恭しく一礼する。そして顔を上げた彼は、茶目っ気たっぷりに片目を瞑っていた。
それを見たはなは吹き出してしまった。彼のこんな顔、初めて見た。……なんだろう。男の人なのに、なぜかとても可愛く感じられた。
シンの理解力と知識欲は、はなの想定をはるかに超えていた。
平仮名や片仮名は、それぞれ二晩で習得。その後は漢字の読み書きだったが、シンはそれに留まることなく、文字の起源や言葉の語源といった、深い知識までをも求めてくるようになってしまった。
教える側であるはなも、シンが求めるものに応えられるように、とより一層勉学に励むようになった。おかげで、はなの成績も一層飛躍し、父に褒めてもらえた。
それに、シンと話す時間は楽しかった。今まで知らなかった一面や、意外な一面を知ることができて、嬉しかった。
だが、楽しい時間は過ぎていく。
今日は、神無月最後の晩。明日からは、シンは日々の祭事に戻らねばならなかった。
「ありがとう。はなの名を自分で書けるようになって嬉しいよ」
「それどころじゃないくらい学んでいたと思うけど?」
シンの言葉に、はなは苦笑いを隠せない。正直、いつ自分がシンの学習意欲に対応しきれなくなるかと、ひやひやしていたのだ。本当、どうにか頑張り切れたと言っていい。
「それもそうだが……一番、嬉しいんだよ。はなの名を書けるってことがね」
「……そっか」
そう言われると、くすぐったかった。目元の赤みを気づかせまいと視線を落とせば、そっと髪を撫でられる。
「明日からはまた会えなくなるが……夏になったら、またこっちにおいで」
「……うん」
「山で、待ってる」
「……うん」
「はな」
「な……っ」
なに? と問う間もなかった。
正面から抱きすくめられ、細身ながら無駄なく筋肉で引き締まった胸に顔を埋める形となった。背中に回されたシンの手が離すまいと、はなの衣を掴んでいる。
「シン……?」
「ごめん。……ごめん。本当に、別れたくない」
「それって……」
「っはは……私も人間らしくなってきたのかな。別れを惜しむようになった」
「シン」
それは少し、違うと思う。そう、最後に教えたかった。それなのに、抱き締められたまま意識が曖昧になってしまって。気づけば、はなは幸せな夢から現実へと還っていたのだった。
梟の声が、どこからか聞こえてくる。はなは、窓に目をやった。
やはりまだ、彼は人に戻り切っていない。けど、それでも。
「……いつか」
この気持ちを共有する日が、訪れますように。
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