第陸話

 雨宮秀一郎は屋敷の廊下を足早に歩いていた。

 使用人の私室が並ぶ棟の一角。比較的広いこの部屋は、はなが昔から懐いている侍女のものだ。

 秀一郎が軽く戸を叩く。


「――はい?」


 少しの間をおいてから、静の返事が聞こえてきた。


「夜分遅くに済まない。俺だ」

「わ、若様!?」


 部屋から顔を出した静は幸いにもまだ寝間着ではなかった。

 それでも、滅多に訪れない秀一郎の来訪に動揺しているようだった。


「どうされました? 私に何か……」

「今から、はなに話がある。案内してくれ」

「は……はい」



 はなの部屋がある棟と秀一郎の部屋がある棟は別だ。それに、はきっと、自分単独で訪ねて行ったら、部屋に入れてはくれないだろう。その為に、静を呼び出したのだ。

 夜でも蒸し暑い廊下を、二人は無言で歩いていた。月明かりだけでも十分見えるが、前を行く静は灯りを手にしていた。


「……若様。――いえ、申し訳ありません。もう、旦那様でしたね」

「構わない。俺とお前は幼馴染のようなものだろう。多少のミスは目を瞑る」

「……お嬢様に、何を話されるおつもりですか」


 秀一郎は曖昧に笑って答えなかった。その代わりに他の話題を切り出した。


「お前、いつぞやの縁談を蹴ったそうだな」

「はい。主よりも先に嫁ぐようなことはできませんから」

「そうか。……お前は、いい侍女だな。忠義者だ」

「ありがとうございます」


 淡々とした会話だが、静は警戒していた。秀一郎は悪人ではないが、雨宮のためなら情を捨てる男だ。傷心している主に何を言い出すのか、気が気じゃない。

 けれど、そうこうしているうちに、はなの部屋に着いてしまった。

 静がそっと扉を叩く。


「お嬢様。旦那様がお見えです」

「――通してちょうだい」


 静が扉を開いて中に入ろうとすると、秀一郎が止めた。


「お前は外に」

「……畏まりました」


 その声音に警戒心を感じ取ったのか、秀一郎は肩を竦めて苦笑した。


「案ずるな。明日の朝には話の内容を使用人にも伝える」


 秀一郎が部屋に入っていく後ろ姿を、静は控えて見ていることしかできなかった。



 秀一郎が部屋の中に入り、静が扉を閉める。虫の声以外聞こえない夜。はなは礼服から寝間着に着替えたものの、一睡もしていなかった。


「こんな遅くにどのようなご用件ですか。明日にしようという思いやりは浮かばなかったのですか」

「いつにも増して機嫌が悪そうだな、はな。確かに明日でもよかったが、早くお前の耳に入れておきたかった」

「何用です」


 はなの睨みを全く気にせず、秀一郎は単刀直入に告げた。


「お前の結婚が決まった」


 はなの顔から一気に血の気が引いた。最初から父の件で青ざめてはいたが、今はもはや真っ白である。


「こんなときに……何を」

「言葉のままだ」

「そういうことではありません!」


 はなの中で何かが弾けた。

 妹の怒鳴り声にも顔色一つ変えない兄。

 結婚? 何を言っているのだ。父が亡くなった直後だというのに、よくそのような戯言を口にできるものだ。


「父様が身罷られたのですよ!? 結婚なんて呑気なことを仰っている場合ですか! それに、私はっ――」


 待て。兄は何と言った。

 はなはもう一度、心の中で兄の言葉送り返す。

 結婚。結婚。――結婚。


『また来年おいで。はな』


 耳の奥に彼の声が甦る。

 とうとう――――来てしまった。

 破綻の瞬間が。夢の終わりが。ついに。

 黙り込んだ妹に、秀一郎は続けた。


「父上亡き今、雨宮の存続のためには早急な動きが求められている。俺が当主になったとしても、変化は免れない。だから、お前が他家との結びつきを作る。これは、この競争社会で生き残るために必要なことだ」


 はなは兄の持論に思わず頷いてしまった。

 だって、どんなに抗ったとしても――自分と彼は違う。交わることも、結ばれることも、ありえない。これは、事実だ。

 秀一郎は大人しくなった妹の肩を軽く叩いてから出ていった。詳しくは後日にまた、と言い残して。

 兄と入れ替わりで静が入ってきても、はなは何も言えなかった。


「お嬢様!?」

「おしず……? どうしたの、そんなまっさおで……」

「気付いておられないのですか……?」

「え……?」

「お嬢様、泣いておられるじゃありませんか」


 嘘だ。だって、自分は、割り切ったのだ。運命を、現実を。割り切って、受け止めた。泣く理由なんて、どこにも――――


 ぴしゃん。


 寝間着に水滴が吸い込まれた。

 それが自らの涙だと悟った刹那、はなは静に抱き着き、大声で哭いた。

 溢れる本心を大量の涙に変えて、はなは一晩中、泣き続けた。

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