山奥の聖域

土御門 響

出逢イ、そして弐ノ年

第壱話

 都から離れたこの地も夏の熱気に包まれている。


「お嬢様、暑くはありませんか?」


 気心の知れた侍女の問いに、はなは緩慢とした動作で首を振った。


「大丈夫。座りっぱなしで少し疲れたけど、耐えられないほど暑くはないわ。こっちは風が気持ちいいから。……お静は?」

「はい、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」


 馬車に揺られて早数時間。目的の地にはまだ到着しない。朝早く屋敷を出たはずなのに、日がもう高い。それほどに遠いのだ。


「それにしても」


 窓から外の景色を眺め、はなは瞳を細める。

 都では決して見られない、田畑と野原と山に囲まれた風景。愛おしい、第二の我が家はすぐそこだ。


「いいところよね、ここ。いつ来ても、何度来ても」


 主の穏やかな呟きに静も、そうですねと同意した。

 その時だった。


『おーじょおー!』


 外から飛び込んできた大音声に、はなはぱっと顔を輝かせる。

 静の制止も聞かず勢いよく窓を開ければ、向こうの畑を駆ける地元の子供たちがこちらに向かって大きく手を振っているではないか。にっこにこの笑顔で。毎年恒例のお出迎えである。


『おーかえりー!』


 そう。ここは。

 都ではお嬢様、姫様と呼ばれるはなも、一人の女の子として、伸び伸びと過ごせるのだ。元気で気さくな、たくさんの友達と一緒に。

 はなは大きくすうっと息を吸い込み、向こうを走る彼らにも聞こえるように叫んだ。


「ただいまー!」


 今年も、夏が始まる。



 昼過ぎになって、ようやく別荘に到着した。

 毎年夏は二週間ほど父の所有する田舎の別荘に滞在する。そのため、はなは幼い頃から夏が大好きだった。

 ここの人々は、はなを家族のように思って接してくれる。自邸での細やかだが、どこか冷めている人間関係より、温かくて思い切り感情を露わにできるこっちの方が、はなはずっと好きだった。


「はなお嬢様、お待ちしておりました」

「お久し振りにございます、小父様!」


 玄関で出迎えてくれたのは、この別荘の管理を任されている初老の男性だ。名を泉というが、はなは小父様と呼んで慕っている。

 華族の娘らしい言葉遣いとは対照的に、はなは泉に思い切り抱き着いた。ブラウスやスカートの乱れなんて気にも留めていない。


「お嬢様!」

「いいのですよ、静さん。お気になさらず」


 といっても、咎める静の声音はそこまで厳しくない。ここにいる間は普通の町娘と変わらない経験や立ち振る舞いをさせてやりたい、という彼女の父の希望があるからだ。……少々度が過ぎているように感じられなくはないが。

 一年ぶりに目にする少女は、去年よりもまた大きくなっている。

 泉は孫を見るような眼差しで、はしゃぐはなに問いかけた。


「また背がお伸びになられましたな。今年でおいくつに?」

「十二よ」

「それはそれは……大きくなられましたなぁ」

「小父様? それ、毎年仰ってる」


 そう言って、おかしそうに笑うはなは実に生き生きとしている。都での姿をよく知る静は、そっと吐息を零した。

 都では、こんな風にはしゃぐことも、声を上げて笑うことも許されない。だから、静は思うのだ。

 せめて、ここでは。華族たる雨宮家の姫ではなく、はなという一人の無邪気な少女であってほしいと。



「久し振りだな、おじょう!」

「はなちゃん、元気だった!?」


 一年ぶりの再会を喜ぶのは大人だけでない。村の子供らもまた、はなの来訪を楽しみにしていた。

 身分の違いなんて、ここでは関係ない。はなは村の子供皆の友達なのだ。

 屋敷を訪ねてきた大勢の子供たちに、静が菓子を振る舞う。ちなみに、菓子は泉のお手製だ。美味しいと、子供たちの間で大人気になっている。

 静が菓子を配りながら丁寧に頭を下げた。


「いつもありがとうございます。お嬢様と仲良くしてくださって」

「だって、おじょうはいい奴だもん」

「都にいるときお姫様でも、はなちゃんは、はなちゃんよ」


 出された菓子を口に詰め込みながらニッと笑って見せる子供らに、静は微笑んで頷いた。主の友人たちは、とても優しい子たちだ。

 すると、二階からはなが駆け足で降りてきた。


「お待たせ!」

「おせーよー! 遊ぶ前に日が暮れたらどうすんだぁ」

「ごめんごめん! 着替えしてて」


 これから野山を駆け回るということで、行きに着ていた服を脱いだ。代わりに、動きやすい薄手のシャツと乗馬の時に履くパンツを身に着けた。これなら、いくら暴れても服が纏わりついて邪魔、なんて事態にはならないだろう。


「お嬢様。室内を走るのは、いくら何でもお行儀が」


 軽く眉を吊り上げる静に、はなは言い返す。


「少しくらいいいじゃない! ここは都じゃないもの」


 その言葉に待ったをかけたのは、なんと少年の一人だ。


「いや、おじょう。悪いけど都じゃなくても家ん中走ったら怒られるぞ。俺、毎日母ちゃんに家ん中走って怒られてるし」

「毎日って、全然反省しないじゃん」

「まあな!」

「胸張らない!」


 子供らのやり取りを見ていた静が、ほらと言わんばかりに吐息をつく。はなは自分の敗北を悟って、がくりと肩を落とした。


「ご、ごめんなさい……」


 その消沈っぷりが面白くて、子供たちがどっと笑い出す。


「笑うな!」


 そう抗議しても、結局は自分もつられて笑い出す。

 何重もの明るい笑い声が屋敷の中で反響する。

 一頻り笑ってから、はなは友達らと遊びに繰り出した。さあ、今日は何して遊ぼうか。

 十二になって、少し大人のようになるわけでもなく。はなは皆と一日を遊び尽くす。


 けれど、それでも確実に、はなは少しずつ大人になっている。



 広大な野原を使った鬼ごっこ。都では絶対にできない全身を使った遊び。はなは笑顔を絶やさない。

 明るいお日様のような笑顔を振りまきながら、緑の上を駆けていく。

 そして、西日が眩しくなってきたら子供らはそれぞれの家に、はなは屋敷に帰るのだ。


「ただいま」

「お帰りなさいませ。夕餉の支度が整っていますよ」

「うん」


 この別荘を管理している泉は大変料理が得意だが、さすがに全て自らこなすことはできない。ゆえに、はなが滞在中の多忙な時期は近所の女性陣に声をかけて手伝ってもらうことにしている。

 女性陣も自分の息子や娘が、はなと仲良くしている。彼女らは嫌な顔をするどころか給金を断って、善意で厨房を取り仕切ってくれている。はなを立派な村の娘の一人として、受け入れているのだ。


「お嬢様」

「なに?」


 山の恵みをカラッと揚げた天ぷら。新鮮な山菜を入れた汁物は先ほどから熱い湯気を立てている。きらきらと光る白米にも食欲をそそられる。その内の汁物の椀に口をつけながら、はなは静を見上げた。


「明日は何をなさるおつもりでしょうか」

「山に行くわ」


 迷いのない即答。それを聞いた静の表情が一瞬曇るも、すぐに笑みを浮かべて頷いた。


「承知いたしました」


 夕餉後にすぐ湯浴みを済ませて、あとは休むだけだ。

 部屋の中の物を丁寧に整えてくれている静を、ベッドに腰掛けながら眺めていたはなは優しく労うように声をかけた。


「お静。もう休むから、大丈夫よ」

「そうですか?」

「うん。今日もありがとう」

「いえ……」


 主の声を受けて扉まで下がり、静が一礼する。


「では、失礼いたします。おやすみなさい、お嬢様」

「おやすみ」


 部屋を出た静は不意に衣服の胸元を握り締めた。そして、その胸の奥に凝る不安を振り払うように、一つ頭を振る。切り替えなければ。今日もまだ、自分の仕事は残っているのだから。目の前のことに集中しよう。いや、しなければ。さもなくば、不安で押し潰されそうだ。


 数年前のこと。

 はなは独りで山へ遊びに行き、神隠しに遭いかけた。

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