第漆話
二年ぶりに足を踏み入れた洞窟は、湿度が高く、空気がねっとりとしていた。しかも夏だから、そこに暑さも加算されて……蒸し暑い。
「……あつ」
「少し涼しくしようか?」
「え」
そんなことができるのか。
はながシンを見上げると、シンは瞼を伏せて一つ、拍手を打った。
すると驚いたことに、肌に絡んでいた湿気が幾分かましになった。
「すごい……」
「空気の中にいる水の精霊に、少し退いてもらったんだよ」
人ではないシンは人間離れしたことができるのだろうと予想はしていたが、実際に目にするとやはり驚く。
「疲れただろう? 今、水を取ってくるから」
奥に消えていくシンを見送り、取りあえずはなは手頃な岩の上に座った。
薄暗い洞窟。普通なら薄気味悪く感じるのだろうが、はなは気に入っている。
外から入ってくる、山の匂いを孕んだ風。水脈があるのか、奥の方から響いてくる雫の音。
どれも、とても安心する。
一度、ここでこの命を繋いだからだろうか。
「おまたせ」
シンが持ってきたのは竹筒。この中に、湧水なんかを入れていつも保存しているらしい。
「私が清めた水だから、染み渡るよ? きっと」
「清水かぁ。……贅沢ね」
「ははっ。特権だよ、一種の」
シンから竹筒を受け取り、こくこくと音を立てて飲めば、冷えた清水が喉を潤し、動いて熱くなっていた肉体を冷ましていく。
ほぅ、と息をついたはなに、シンは隣に片膝を立てて座り、笑った。
「気持ちいい?」
「うん」
「それは良かった」
はなは、そのまま中身を飲み干した。
随分と涼しくなったように感じる。
ふと、はなは気づいた。こちらを見ているシンが、なぜか一点を見つめているような……
「ああっ!」
袴の染み!
道中転んだ時の!
まずい、見られた……!
恥ずかしいにも程がある。尻の部分に大きな染みをこさえているなんて、乙女の風上にも置けない。
情けなさに顔を覆うはな。そんなはなに、シンは無言だった。
「……」
はなは不意に顔を上げた。染みの部分に違和感を覚えたのだ。
シンの方を見ると、彼は体ごとこちらを向いて、胡坐をかいていた。瞳を伏せて両手を合わせた姿は、仏像か何かのようだ。
シンが小さく呟く。
「この地に宿りし水の霊よ。我が声を聞き、我が声に応え給え……」
染みの部分に、燐光のようなものが集まってきた。それらは、しばらく染みを覆っていたが、間もなくパッと散って消えた。
燐光が消えると、袴の染みは綺麗になくなっていた。
「え、え!?」
「良かった。ちゃんと落ちたみたいで」
待て。ちょっと待て。今のは、まさか。
「……シン?」
「うん?」
「今のって……」
「まぁ、分かりやすく言えば洗濯かな」
「今のも神様とかだよねっ!?」
「ま、まあ……そうなるのか」
「いいのっ?」
「何が」
「こんな雑用に、わざわざお呼び出しして……!」
「はな」
若干の怒りを以て、慌てるはなを制する。
案の定、シンがこのような声を出すことは滅多にないので、はなはビクンと反応した。
「女の子の身嗜みを整えることが雑用? そんな戯言は言わないでくれ」
「シン……?」
「乙女というのは昔から、社に仕える巫女や、位が高い者になれば斎院、斎宮といった、とても大切な役目を担ってきた。神はね、女の子がどれだけ自分らにとって大切な存在か、理解されているんだよ」
この地に宿る神や精霊の類は、既にはなを認識している。
はなも、巫女としての素質はないものの、近年にしては珍しく力の強い娘らしい。山神の結界を抜けたのも、おそらくそれが原因だ。
「そんな大切な存在のことを、
話の途中から俯いてしまったはなの髪を優しく撫でた。この子の髪は、触っていて心地よい。
「怒っているわけじゃない。けど、自分のことをあまり卑下しないで。……個人的な、要望でもある」
個人的な要望、と聞いたはなが、途端に顔を真っ赤にした。
シンは理由がわからず首を傾げた。
「はな?」
「わ、分かった! 分かったから、ちょっと見ないで!」
そう叫んで背を向けられてしまう。
訳が分からない。
「はな?」
「見ないでっ! 恥ずかしいから!」
「恥ずかしいって……何が」
「分からなくていいのっ」
「はぁな」
あやすように名を呼んでも、はなはこちらを向いてくれない。自分は何かまずいことを言ったか?
「……すまない、はな。永いこと人間と接触していなかったせいか、感情の機微が私にはどうも……」
「いいの! 男の人に乙女心は分からないものだからっ!」
ちなみに、最後のは静の受け売りである。
シンは納得していないようだが、追及してほしくないことは分かってくれたらしい。
「……分かった。分かったよ。けど、せめてこっちを向いてくれないか? なんだか拒まれているように感じる」
「うー……分かった」
異性から、個人的に、なんて言われたことはない。そんな異性に、大事に思ってもらったことはない。肉親は別として。
シンの声は魔術のようだ。些細な言葉も、なんだか
まだ顔が熱い。それなのに無自覚ゆえに追い打ちをかけてくるから、シンは本当にずるい。ずるいという表現しか出てこないから、ここはずるいと言っておこう。
「落ち着いた?」
すっと手を伸ばして火照った頬に触れてくる。ぶわっと、今度こそ全身が熱くなった。
「っ! シンッ!!」
「うわっ、いきなり大声出さないでくれ、はな」
「っ、っ!」
言いたいことは山ほどあったが、うまく伝える自信はなく、はなはぷるぷると震えるだけに留まった。
そんなはなを首を傾けて見ていたシンだったが、頬に触れていた手を動かして、右の横髪に結ばれたリボンに触れた。
「これは……飾り紐かい?」
「え。……あ、そう。西洋の飾り紐、かな」
「へぇ」
シンが興味深そうに蝶結びにされたリボンの端や結び目を摘まむ。
耳に時々シンの爪が当たってくすぐったい。
「今は、朝鮮や中国以外にも、英吉利や亜米利加みたいな欧米諸国とも国交があって……」
そこまで言って、はたと気づく。やっとここに来た目的に着手しているのではないか、自分。
「……はな、まずい」
「ん?」
「……国が分からない」
「……あ」
そうだ。シンはずっとこの山で暮らしていて、外を知る機会なんてなかったのだ。
シンの知る国なんて、せいぜい朝鮮と中国と東南アジア数か国がいいところではないか?
「シン」
「なに?」
「知ってる国は?」
「……すまない、蝦夷くらいしか分からない」
いつの時代!?
思わず心の中で叫ぶ。
しかもそれは国とはまた違くはないか。
「むむ……」
これは、先に一般教養を教えなければ埒が明かないかもしれない。
「シン。読み書きは?」
昔は識字率も低かったはず。
「……そういえば、経験がないな」
やっぱり。
「……よし。取りあえず、そこからね」
「すまない」
「いいよ。教えるの楽しいし」
こう見えて、はなの女学校での成績はそこそこ良い。
「じゃあ、今度からは文字教えるから」
「礼を言う」
また違った楽しみができたと、はなは笑みを零した。
日の入り前に屋敷に戻ると、泉が迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「今日はどちらに?」
「……山に、お参りしてきたわ」
「そうですか」
泉は応えながら、ちらりと柱の陰に視線をやった。そこで静が両手を握り締めていたのだ。
静は、はなの答えを聞いて大きく息を吐き出し、そのままふらふらとした足取りで自室に戻った。夕餉までまだ時間はある。少し休んでも問題はない。
ボフン、と簡素な寝台に横になった。
泉がさりげなく問うた内容は、この二年、ずっと静が知りたかったことだった。それをあんなにもあっさりと。やはり、まだまだ自分は若い。
だが、そんなあっさりと訊けることを、自分は主に訊けなかったなんて。その理由は分かっている。自分が、二年前に囚われていたからだ。恐れていたからだ。あの恐怖に、怯えていたからだ。そのせいで、主に負担を掛けてしまったことだろう。
けれど、それでも今は、主が山に通う理由が分かって、本当に安心した。泉は、我々の不安や心配を払拭してくれたのだ。
仰向けになって、腕で目を覆った。自分で訊こうとも考えていたが、結果的には泉が訊いてくれて良かったと思う。自分だと、きっと自然に会話を切り出すことすら、困難だっただろうから。そう思った静の息とともに吐き出した言葉は、みっともなく震えていたので、誰にも聞かれなくて良かったと思う。
「お嬢様……!」
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