第参話

 時を、二年ほど遡る。


 その夏も、はなは別荘を訪れていた。別荘は本当に楽しい。毎日飽きない。都とは大違い。

 そんな夏の日、はなは一つの目標を立てたのだ。


 今日は朝から読書をしている。昨日たくさん駆け回ったから、今日はゆっくり体を休めているのだ。

 はなはページを捲る手を休め、ふと屋敷の窓から望む景色に目をやった。


「お嬢様?」


 窓から目を離さないはなを不思議に思った静が声をかける。


「どうされました?」

「ねえ、お静」


 本を手にしたまま窓の向こうを眺め、はなはぽつりと呟いた。


「あの山、大きいわね」


 はなと同じように外に目を向け、静は同意を示した。


「そうですね。あれは古くからこの地に在りますし、あのようになるのも道理でしょう」

「……そうね」

「お嬢様?」


 何かを考えている様子の主。これまで様々な経験を経てきた静の頭の中で警鐘が鳴る。これを放っておくのは良くない。主のお転婆は時にとんでもない事態を引き起こすこともあったのだから。

 しかし、あっさりはなは考えるのを止めたようで、再び本に目を落とした。静の懸念に気づいていないはなは顔を上げ、いつもと変わらない口調で言った。


「お静、何か飲み物を頂戴」

「……はい。お持ちしますね」


 大丈夫みたいだ、と静は階下に降りながら少なからず思った。

 しかし、静はこの後、本当に自分は甘かったと激しく後悔することとなる。



 当時、はなはよわい十歳。

 今もかもしれないが、今以上に怖いもの知らずの子供だった。

 だから、己が抱いた好奇心の赴くままに行動を起こしたのだ。

 独りで。



 少女はなは知りたいと思った。

 あの山のてっぺんから見る屋敷の姿は?

 あの山のてっぺんから望む景色は?

 どんな風に、なっているのだろう?

 そんな思いを胸に山を登り始めた。静や泉には、野山を駆けてくると言って。嘘は一つも吐いていない。事実、向かう先は野山。

 いつもの駆けっこの、延長のように考えていたのだ。自分なら大丈夫。ちょっといつもより険しい道を登るだけ。

 だが、そんな考えは甘すぎたのだと、はなはすぐに思い知る。


「はぁ、はぁ……は、はぁ……」


 どのくらい登ったのだろう。どのくらい歩いたのだろう。今は何時だろう。

 歩いても、歩いても、目の前の景色が変わることはなく。一歩前に踏み出せば、木の根や岩に足を引っ掛けて転びかけ、どうにか踏ん張っても肝心の足元がぬかるんで頼りなく、ずるりと危うく滑りかける。


「は、は……!」


 ここに何をしに来たのか。今、自分は何をしているのか。それすら、だんだん分からなくなってきた。自己というものが、はなの中で曖昧になっていく。

 未熟で幼い身に余る疲労と苦痛。それらに思惟を埋め尽くされて、もはや彼女の頭に残っているのは、生き延びねばという切実な本能のみ。

 帰るなどという理性的な選択肢は、思いつきようもなかったのだ。

 荒い呼吸に痺れる四肢。肉体の悲鳴を無視して、はなは進む。

 進まなければ。

 進まなければ――


 そこで、はなの意識は途切れた。

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