第30話 あたいをスタバに連れてって


 火災現場を後にした清志郎とシオンは、高層ビルが立ち並ぶ街路を新宿駅の方へと向かう。

 行きとは打って変わった、のんびりとした足取り。冗談交じりの会話が飛び交い、二人の顔には笑みが浮かぶ。


「シオン、腹減ってねえか? アヤに聞いたら、今日の朝食は紅茶と牛乳だけとか言ってたから」


「ペコペコさ。何せ前回食べたのは、三百年以上前だからね」


 シオンは、右手で胃のあたりをさするような仕草をする。食事や睡眠を必要としないシオンにとって、空腹感はとても懐かしい感覚だった。


「九時か。いくらなんでも昼飯には早えよな……」


 清志郎は、腕時計に目をやって考えるような仕草をする。


「スタバでも行くか……。確か南口のサザンテラスにだだっ広い店があったよな。あそこなら待つこともねえだろうし――シオン、紅茶とかコーヒーは飲めそうか?」


 清志郎は、独り言のように呟くと隣りに視線を向ける。

 すると、そこには、瞳をキラキラ輝かせて無邪気な笑顔を浮かべるシオンの姿があった。


「今、スタバという言葉が聞こえたような気がしたが、それはのことかい?」


 シオンの言葉から期待感がひしひしと伝わってくる。


「お前の言っているスタバがどのスタバなのかわからねえが、コーヒーやスイーツのチェーン展開をしている『スターバーストコーヒー』のことだ」


「それだよ! それがあたいの言ってるスタバさ!」


 シオンは、歓喜の声をあげながらウンウンと何度も首を縦に振る。


「でも、お前、紅茶とかコーヒーとか飲んだことねえんだろ? 日本茶や緑茶を置いてる店の方が――」


「――そんなことはない! こう見えてあたいは順応性が高いんだ! もし店を変えるなんて言い出したらタダじゃ置かないよ! あんたとはこれまでだからね!」


 シオンは、清志郎の言葉をさえぎると、顔を至近距離まで近づけて大声でまくし立てる。

 すれ違う人が、振り返って、珍しいものでも見るように二人に視線を送る。


『俺とはこれまでって……俺のこと三百年以上待ってたんじゃなかったのかよ?』


 心の中で呟きながら、清志郎はヤレヤレといった表情を浮かべる。


「わかった。わかったから少し落ち着け」


「じゃあ、スタバへ連れてってくれるのかい?」


 シオンは、真剣な顔でゴクリと唾を飲み込む。


「ああ、連れて行く。ただ、無理はするんじゃねえぞ。体調を崩して明日に支障が出ることになったら元も子もねえからな」


「心配御無用さ。あたいは、健康管理には人一倍厳しいんだ。歌姫にとって健康は何よりも大事だからね。そうと決まれば、スタバへレッツゴーだよ!」


 右手の握りこぶしを突き上げて、シオンは軽い足取りで歩いていく。

 苦笑いを浮かべる清志郎だったが、うれしそうなシオンを見て悪い気はしなかった。

 火の神との戦いを控えて不謹慎と思われるかもしれないが、厳しい現実が待ち受けているからこそ、シオンには楽しんでもらいたかった。すべてが終わったとき、「この世界も悪いことばかりじゃなかった」と思って欲しかった。


★★


 平日の九時過ぎにもかかわらず、新宿サザンテラスはたくさんの人で賑わっていた。ただ、幸いなことに、スタバには待つことなく入店することができた。

 二人は、通りに面したカウンター席に並んで座る。

 シオンのトレイには、橙色と白色の色合いが鮮やかなキャラメルマキアートに、チーズがたっぷり乗ったラザニアとチョコレートケーキ。清志郎のトレイには、アイスレモンティーにシュガードーナツ。

 二つのトレイを見比べながら、シオンは、ご機嫌な様子で鼻歌を口ずさむ。すると、歌声に呼応するように、キャラメルマキアートの表面が波打ち、小さな水滴がゆっくりと宙に浮かんでいく。


「バ、バカ! こんなところで力を使うんじゃねえ! 変なヤツだと思われて店を追い出されるぞ!」


 清志郎は、焦ったようにカップを両手で隠しながら、声を押し殺すように言った。

 その瞬間、シオンの顔からサーッと血の気が引く。


「ダメだ……。この機会を逃したら、あたいは間違いなく後悔する……。わかった。スタバを出るまでは絶対に歌わない。約束するよ」


 シオンは、神妙な顔つきで反省したような態度をとる。

 しおらしくするシオンに、清志郎は思わず口元を緩ませた。


★★★


「――美味しかった。もう思い残すことはないよ。清志郎、あたいは今ほど『生きていてよかった』と思ったことはないよ」


 店に入って三十分が経った頃、シオンは、これ以上ないような、幸せそうな表情を浮かべる。「生きてねえだろ?」という突っ込みをしようとして、清志郎は言葉を呑み込んだ。


「お前、エスプレッソなんて飲めるんだな。確かにシロップやキャラメルが入って飲みやすくはなってる。でも、俺はいまだに飲めねえよ」


 清志郎は、シオンの顔を不思議そうに眺めながら、ひげを蓄えた口でアイスティーのストローを咥える。


「キャラメルとミルクの組合せも絶妙だが、エスプレッソの苦味も悪くないね。コーヒーが飲めないなんて、あんた、意外とお子ちゃまなんだね」


 シオンは、フフンと鼻で笑いながら、したり顔で清志郎を見る。


「うるせえな。俺はアイスティーが好きなんだよ」


「へぇ、そんなに美味しいのかい? そのアイスティーってのは」


 そう言うが早いか、シオンは清志郎のグラスに顔を寄せると、アイスティーのストローを咥え込んだ。


「うん。アイスティーも悪くないね」


 ストローから口を放したシオンは、口角をあげて笑う。

 予期せぬ出来事に、清志郎は口を半開きにして固まる。


「どうしたんだい? 鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して……。あたいにアイスティーを飲まれたのがそんなにイヤだったのかい?」


「い、いや……そうじゃねえ。そうじゃねえけど、突然のことだったからちょっと……」


 清志郎は、気恥ずかしさのあまり目を逸らす。胸の鼓動が速くなっているのがわかった。

 「綾音」が、これまで見たことのない、妖しい表情を浮かべて、何の躊躇ためらいもなく清志郎のストローに口をつけた。

 それは、清志郎が綾音を一人の女として意識した、初めての瞬間だった。


「仕方ないね。代わりにあたいのキャラメルマキアートをあげるよ。ほら」


 シオンは、清志郎の目の前に自分のカップを差し出す。カップの縁には、薄らと赤色のルージュが付いている。


「い、いらねえよ。もう腹が一杯だ。そろそろ行くぞ」


「そうかい? あんたがそう言うなら」


 シオンは、残ったマキアートを飲み干すと口のまわりにペロリと舌を這わせる。そんな仕草にさえ、清志郎は、胸の高鳴りを押さえることができなかった。綾音を女として意識したからなのか、シオンの妖しい雰囲気に魅せられたからなのかは、わからなかった。

 清志郎は、頭を左右に振って何かを払い除けるような仕草をする。

 二人は、トレイを所定の位置に戻してスタバを後にした。


★★★★


「清志郎……」


 スタバを出てすぐ、清志郎の背後からトーンダウンした、暗い声が聞えた。

 振り向くと、シオンが立ち止まって不快な表情を浮かべている。


「どうした? 気分でも悪いのか?」

 

「ちょっと……苦しいんだ……」


 眉間に皺を寄せて、シオンは胸のあたりに手を当てる。


「ほら、言わんこっちゃねえ。食べ過ぎたんだろ? どこかで休んでいくか?」


 清志郎は、小さくため息をついてヤレヤレといった表情を浮かべる。

 すると、シオンは、そうじゃないと言わんばかりに首を何度も横に振る。


「苦しいのは、腹じゃなくてこの辺りだ」


 シオンは、清志郎の目の前に自分の胸を突き出して、両手の手のひらで包み込むようにさする。

 予想だにしない事態に、清志郎は大きく目を見開いて言葉を失う。


「実は、小娘とシンクロしたときからずっと違和感があった。清志郎、ちょっと見てくれないかい?」


 そう言うが早いか、シオンはセーターの裾を首のあたりまでたくしあげると、黒いV字のヒートテックの胸の部分をつまんで引っ張って見せた。

 清志郎の目に、綾音の胸の谷間が飛び込んできた。


「バ、バカ野郎! こんなところで何やってるんだよ!」


 清志郎は、シオンの背中を建物の壁に押し付けると、周りから見えないように自分の身体を覆いかぶせた。

 焦った表情を見せる清志郎を、シオンはきょとんとした様子で見つめる。


「何を慌ててるんだい? 何か問題でもあるのかい? そうそう、あんたに見て欲しかったのは、あたいの胸を締め付けてるだよ。苦しくてたまらないんだ。背中の留め具を外してくれないかい?」


 公衆の面前で胸元をあらわにしたシオンは、清志郎にブラジャーのホックを外すように言った。

 確かに、江戸時代は、女性の胸は母性の象徴であり、隠すようなものではなかった。ブラジャーの役割を果たすものを身につけている女性もほとんどいなかった。

 そんな常識を持ち合わせるシオンにとって、ブラジャーは無用の長物にほかならない――が、現代において、シオンの常識は通用しない。


「シオン、一度しか言わねえからよく聞いてくれ」


「どうしたんだい? 怖い顔して。腹でも痛いのかい?」


 必死の形相を見せる清志郎とは対照的に、シオンはあっけらかんとした笑みを浮かべる。


「江戸時代でも、女は下半身を隠すための下着はつけてるよな?」


「何を言うかと思えば、当たり前だろ? それは女のたしなみだよ」


「じゃあ、下着を白昼堂々と他人に見せるヤツがいたとしたら、お前、どう思う?」


 清志郎の問い掛けに、シオンは、右手で口を押えて吹き出すような仕草をする。


「そんなヤツ、いるわけないだろ? 非常識もはなはだしいよ。下着は見せるものじゃない。もしそんなことをするヤツがいたとしたら、そいつは男を誘う淫乱女だよ。でも、清志郎……? どうして急にそんなこと訊くんだい?」


 シオンは、首を傾げて不思議そうに清志郎の顔を見つめる。


「現代では、女にとって胸を見せることが下半身を見せるのと同じぐらい恥ずかしいことだ。だから、みんな胸に下着を付けてる……。シオン、俺の言っていることがわかるよな?」


 その瞬間、シオンは言葉を失う。息を潜めて、見開いた目で遊歩道を行き交う人の姿を追った。これまで自分がしてきたことを回想するかのように。


「清志郎……」


 清志郎の胸に顔をうずめると、シオンは、蚊の鳴くような声でポツリと言った。


「すぐにここを離れよう。あたいをどこか遠くへ連れて行っておくれ」



 つづく

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