第41話 譲れぬ思い


 突然、隅田川の水面を突き破るように現れたのは、百体にも及ぶ、憎悪の炎だった。

 それらは、真っ赤な火の粉を撒き散らしながら、大蛇が鎌首をもたげるようにゆらゆらと立ち上っていく。

 百体のうちの十体が、清志郎と綾音のいる水の球体を取り囲み、残りが、隅田川を埋め尽くす。清志郎と水のほこらを狙っているのは明らかだった。


『ミヅハノメ、あんたの言うとおりだった……』


 真っ白な蒸気に覆われた川面に、シオンは、呆然ぼうぜんと立ち尽くす。小さな身体が小刻みに震えている。


『ダメかも……しれない……』


 シオンの口から弱気な言葉が漏れる。

 弱音など吐きたくはなかった。吐くべきではないこともわかっていた。しかし、長年憎悪の炎と対峙してきたシオンには、相手の力量を計り知ることができた。


 憎悪の炎は自らを分裂させ、それぞれ単独で行動することができる。言い換えれば、力を分割する能力を備えている。

 カズワリーが出動した、川崎と新宿の現場にほぼ同時に炎が出現したのもそのためだ。そのときは、苦戦しながら封じ込めることができたが、もし憎悪の炎が分裂していなかったら結果はどうなっていたかわからない。


 今回、憎悪の炎はおよそ百体に分裂しており、シオンが戦っていたのはそのうちの一体に過ぎない。それでもパワーは、前回とは桁違い。百体が合体しても単純に力が百倍になるわけではないが、力を分割している以上、それに近い数字となることは容易に想像がつく。


 一体を封じるのに一時間を要するのであれば、百時間かければすべてを封じることができるのか? 答えは「NO」。なぜなら、そんな力を百時間持続させるエネルギーをシオンは持ち合わせていないから。

 四二・一九五キロの距離で世界記録を持つマラソンランナーが、四千二百キロの距離を同じペースで走れるかと言えばそうではない。仮にペースを落としたとしても、休みなく走り続けるのは不可能だ。


 シオンの脳裏にが浮かぶ。しかし、即座に頭を左右に振ってそれを振り払った。


『ダメだ。絶対にダメだ。あたいがここで食い止めないと』


★★


 清志郎と綾音の周りを取り囲んだ、十体の炎が、息つく間もなく襲い掛かる。しかし、そんな波状攻撃も、水の壁に阻まれ二人には届かない。


 突然、炎が動きを止める。

 その様子を、シオンはいぶかしそうに見ていた。

 十体の炎がある一点に向かってじわじわと移動を開始する。


『こいつら、合体するつもりだ――清志郎! 綾音!』


 シオンが大声を張り上げる。その顔には、焦りの色が見て取れた。

 なぜなら、シオンの脳裏には、合体して力を増した炎が水の壁を破壊するシーンが浮かんでいたから。


「シオン、こいつらが力を分割できることは、お前から聞いてる! いくらお前でも全部を相手にするのは無理だ!」


 清志郎の真剣な眼差しがシオンに向けられる。シオンが自分の名前を口にした理由を清志郎は理解していた。


「俺たちはこんなところで終わるわけにはいかねえ! 絶対に過去へ行く! これから俺が水のほこらの扉を開ける! 心的波動同調シンクロして抜け道ワームホールを通るまでどれくらいかかる? 二、三分あれば何とかなるか?」


 シオンの目が大きく見開く。清志郎がを考えているのがわかったから。

 間髪を容れず、鋭い視線が清志郎に突き刺さる。


『あんたの言うとおりさ。三分あればいける』


「じゃあ、三分間、あいつらの動きを止めてくれ! その隙に心的波動同調シンクロして過去の世界へ――」


『――ダメだ! 絶対にダメだ!』


 清志郎の言葉をさえぎるように、シオンは語気を荒らげる。


『これ以上、誰も死なせやしない! 誰もらせはしない! こいつらはあたいが封じる! 百時間かけても二百時間かけても必ず封じてみせる! 清志郎、あんたと綾音は片が付くまでそこでじっとしてるんだ!』


 怒声のような言葉とともに、シオンの全身から凄まじいオーラが立ち上る。

 両手を左右に広げて目をつむると、シオンは静かに歌い始めた。

 それは、アイルランドの歌姫エンヤが歌った、映画「ロード・オブ・ザ・リング」のテーマソング「May It Beメイ・イット・ビー」。エンヤを彷彿させる、透明感のある、伸びやかな歌声があたりに響き渡る。

 旋律に導かれるように、隅田川の水がゆっくりと宇宙そらに向かって上り始めた。まるで巨大な滝の水が逆流しているようだった。


「シオン……」


 清志郎は、シオンが自分の提案をかたくなに拒む理由を理解した。


「清ちゃん、シオンさんは何て言ったの? 三分でも厳しいって?」


 綾音が心配そうな顔で清志郎を見つめる。


「シオンの力をもってすれば何とかなる。ただ、あいつは、どんなに時間が掛かってもこいつらを封じると言ってる。今、それをやろうとしてる」


「そんなの無理だよ! 一体封じるだけで一時間かかるんだよ? どう考えても、シオンさんの身体がもたないよ。どうしてシオンさんはそんなこと言ってるの?」


 綾音は、納得がいかないといった様子で捲し立てる。


「たぶん、さっき俺がお前に話したのと同じ理由だ。シオンは俺たちが過去へ行った後のことを考えてる。残されたお前たちが悲惨な目に遭うのが我慢ならねえんだ。それと、自分の仲間にこれ以上人殺しをさせたくねえんだ」


 清志郎の胸にやりきれない思いがこみ上げる。過去に行かなければ全ては終わる。ただ、シオンの気持ちも痛いほど理解できた。


「そんなのって……」


 綾音は、シオンが戦っている場所を悲しそうに見つめた。


「アヤ、俺はお前に言われて自分の気持ちを抑え込んだ。自分を無理やり納得させた。『俺たちが過去へ旅立った後、世界が炎に焼き尽くされたとしても、作戦が成功すれば元通りになる』ってな。

 でも、シオンは割り切れずにいる。あいつには譲れねえ思いがあるんだ。過去へ行くにはあいつの力が必要だ。ここは、あいつの考えを尊重するしかねえ」


 清志郎は、シオンの方に視線を向けてギリっと歯を食いしばる。


「シオンさん……ダメだよ……」


 綾音の瞳が微かに揺れている。

 シオンの思いは、綾音にとって嬉しいと同時に辛いものでもあった。自分が二人のお荷物になっている気がしたから。

 お荷物――その言葉は、綾音が物心ついた頃からずっと心に圧し掛かっていたもの。そして、いつか必ず克服したいと思い続けてきたもの。


『……じゃあ……遠慮なく……イカセテもらうよ!』


 シオンは、肩で息をしながら両手を広げて天を仰いだ。

 空中に蓄積された、隅田川の水が細かな水滴へと形を変えて、百体の炎の周りをすっぽりと覆う。シオンは直径が百メートル以上ある、巨大な水の檻ウォーター・ジェイルを作り上げた。


『ここからは絶対に出さない。お前たちはここで消えるんだ』


 シオンは、血走った目で炎を睨みつけながら、まるで呪いの言葉でも吐くように言い放つ。

 すると、それに呼応するかのように、無数の水滴が炎の周りを高速で回り始めた。



 つづく

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