第40話 憎悪の炎


『汚い手であたいの仲間に触るんじゃないよ! このクソ野郎が!』


 清志郎の背後には、肩を震わせながら、怒りの表情をあらわにするシオンの姿があった。


「清……ちゃん……」


 球体の中にいる綾音は、うつろな眼差しを清志郎の方へ向けると、崩れるようにその場に倒れ込んだ。


「ア、アヤ!――シオン、アヤは無事なのか!?」


 血相を変えて詰め寄る清志郎に、シオンは、大丈夫と言わんばかりに首を大きく縦に振る。


『気を失っただけさ。水の壁を作って炎を遮断した。綾音には、指一本触れさせちゃいないよ』


「助かった……。一時はどうなることかと思った」


 清志郎は、安堵の表情を浮かべて、手袋をめた手で額の汗を拭う。


『安心するのはまだ早いよ。あいつは直に勢いを取り戻す。清志郎、あんたもこの中に入るんだ』


「入るって、この球体にか? 自由に出入りできるのか? 触っても平気なのか?」


 清志郎は、戸惑った様子で、水の球体とシオンの顔を交互に見る。


『人が触れても問題はないよ。ただ、火にとっては猛毒みたいなものさ。普通の火が触れれば即座に消滅する。でも、あいつはそうはいかない。なんたって、からね』


 シオンは、隅田川の方へ鋭い視線を送る。

 そこには、大蛇のような外観をした、どす黒い炎が全身から白いもやを立ち上らせながら、小刻みにうごめいている。


「シオン、あれは俺たちが新宿で出くわしたヤツだな?」


 清志郎は、乾いた唇に舌を這わせてゴクリと唾を飲み込む。

 シオンは、ゆっくりと首を縦に振った。


『そのとおりさ。あいつはヒノカグツチが作り出した、憎悪の炎。タイミングを見計らったように復活しやがった』


「やっぱりな。それで、どうなんだ? お前の力であいつを封じられるのか?」


 清志郎の問い掛けに、シオンは、憎悪の炎を睨みつけながらグッと唇を噛む。どこか不安気な様子が見て取れる。


『ミヅハノメは言っていた。あいつは桁違いにパワーアップしていて、あたいたちがどうこうできるレベルじゃないと……。でも、あんたも見たろ? あたいの水の力であいつの勢いを止めることができた。これならいける。時間さえ掛ければ封じることができる』


 シオンは、自分を鼓舞するように言い放つと、キッと目を上げる。


『過去の世界へ行くのは、あいつを片付けた後だ。清志郎、ここで待っていておくれ。あの炎はあんたを狙ってる。絶対に壁の外に出るんじゃないよ』


 そう言うが早いか、シオンはフェンスをすり抜け、ボコボコと泡が噴き出す川面を跳ねるように進んでいく。そして、鎌首をもたげようとする、憎悪の炎の前に悠然と立ちはだかった。


『こんなところまで追いかけて来るなんて、あんた、最低・最悪のストーカーだね。でも、ここまでだ。これ以上、好き勝手にはさせないよ』


★★


「アヤ! アヤ! おい、アヤ! しっかりしろ!」


 気絶した綾音の身体を揺すりながら、清志郎は必死に呼び掛ける。すると、綾音の目がゆっくりと開く。


「清ちゃん……? 私……大きな炎に包まれて……でも、生きてる。清ちゃんが助けてくれたの?」


「気が付いて良かった。お前を助けたのはシオンだ。シオンがこの水の壁を作ってお前をあの炎から守ってくれたんだ」


 清志郎は、自分たちを取り囲む、水の壁に目をやる。

 綾音は、驚いた様子で自分の周りをグルリと見渡した。


「あの炎は、新宿と川崎でカズワリーを襲ったヤツだ。シオンは『憎悪の炎』と呼んでいた。復活しやがったんだ。俺たちの計画をぶっ潰すために。今、シオンはあいつと戦ってる。

 アヤ、あの炎は一瞬で人や物を消滅させる、恐ろしいヤツだ。シオンがあいつを封じるまで絶対にここから出るんじゃねえぞ」


 清志郎の言葉に、綾音は緊張した様子で首を縦に振る。隅田川の方へ目をやると、そこには高々と鎌首をもたげる炎の大蛇――勢いを取り戻した、憎悪の炎の姿があった。

 全身から噴き出す、火の粉が、隅田川の上空を夕焼け空のように赤く染める。同時に、辺りに降り注ぐそれは、次々に建物や樹木を燃え上がらせる。

 いつの間にか清志郎たちの周りにも火が回っていた。


「清ちゃん、これって大丈夫なの? 私たち蒸し焼きになっちゃわない?」


「いや、こいつは普通の火だ。水の壁に触れた瞬間、消滅してる。大丈夫だ。シオンが俺たちを守ってくれてる」


 不安そうな綾音を励ますように、清志郎は力強く言った。

 そのとき、歌声が聞こえた。それは、シンディ・ローパーの世界的なヒット曲「Time after Timeタイム・アフター・タイム」。声に呼応するかのように、川の水が何本ものロープに姿を変え炎の大蛇の身体に巻き付いていく。しかし、すぐに消滅して真っ白な水蒸気へと姿を変える。

 シオンは、肩をすぼめてヤレヤレといった仕草をする。


『時間の無駄ってことだね。じゃあ、少し趣向を変えよう。もう少しハードなのを聞かせてやるよ』


 両手を胸に当てるとシオンは再び歌い始める。「Smooth Operatorスムース・オペレイター」。一九八〇年代に流行したハウスミュージックのナンバーだ。

 隅田川の水が噴水のように勢いよく噴き上がり、無数の水の粒が炎の周りを高速で回転し始める。炎が水の粒を蒸発させようとするが、それを上回る勢いで水が炎を取り囲んでいく。真っ白なもやを立ち上らせながら、水と火がしのぎを削る。


『どうしたんだい? 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔してさ』


 シオンは、憎悪の炎を見下すように言い放つ。


『確かに、あんたはパワーアップしている。それは認めるよ。でも、あたいは確信した。一時間もあればあんたを封じることができるってね。なあに、簡単なことさ。あんたをこの「水の檻ウォーター・ジェイル」に閉じ込めて中を真空状態にする。空気が無なければ火が燃えることはない。それは数千度の炎でも同じさ。太陽みたいに核融合を起こしているなら話は別だが、そうじゃないんだろ? 水の檻ウォーター・ジェイルを長時間維持するには膨大なエネルギーが必要だ。ただ、あんた一匹を封じるぐらいなら十分にもつ。覚悟しな』


★★★


「すげえ……。シオンのヤツ、余裕じゃねぇか!」


 水の壁の内側からシオンの戦いぶりを見ていた清志郎は、驚嘆の声を上げる。


「シオンさん、がんばってるの? あの水の粒がシオンさんの力なの?」


「ああ、そうだ。あいつの力がこんなにすげえとは思わなかった」


 清志郎は、シオンの姿が見えていない綾音に、目の前の状況をこと細かに説明する。

 綾音は、目尻の下がった、大きな目をさらに大きくして興奮気味に聞いている。


「シオンさん、無茶苦茶カッコいい。私も見てみたいな。シオンさんがあの憎たらしい炎をコテンパンにやっつけてるところ……。清ちゃん、後で、今の様子を絵に描いてくれない?」


「無茶言うなよ。俺だって、はっきりと見えているわけじゃ……」


 突然、清志郎の言葉が途切れた。それは瞳に「あるもの」が映ったから。

 状況は、隣にいる綾音にも理解することができた。なぜなら、綾音にも「あるもの」が見えていたから。


「清ちゃん……? これ全部……憎悪の炎なの?」


 綾音は、全身をガタガタと震わせながら喉の奥から声を絞り出すように言った。

 清志郎は、YESともNOとも答えなかった。その存在を認めたくなかったから。それを認めることで、希望が消え失せてしまうと思ったから。


 隅田川の中から、炎の大蛇が次々と姿を現す。

 その数は十や二十ではない。百以上の火柱が隅田川を埋め尽くした。


 シオンは、息を飲むようにその様子を見ていた。そして、瞬時に悟った――自分が対峙していた炎は、憎悪の炎のほんの一部に過ぎなかったことを。



 つづく

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