第4部 最終決戦 On the Great Fire of Meireki

 第39話 満月の夜


「ミヅハノメ、ナンキョクって知ってるかい?」


「一年中、分厚い氷に覆われている、あの南極のことですか?」


「なんだ。知ってるのかい」


 シオンの唐突な質問にミヅハノメがあっさり答えると、シオンの声がトーンダウンする。


「でも、実際に行ったことはありません。どんなところかイメージできるぐらいです。水が存在するところであれば、フィルターを通して様子をうかがうことができますからね」


「じゃあ、あたいとあまり変わらないね。あたいが見たのも偽物のナンキョクさ。でも、すごく綺麗だった。世界の果てにあんなに美しい場所があるなんて驚きだよ」


 シオンは、清志郎とプラネタリウムに出掛けたときのことをうれしそうに話して聞かせる。


「ナンキョクは、生きていくには厳しい場所なんだ。でもね、懸命に生きている動物たちがいる。短い夏には花だって咲く。たくさんの命が息づいている……。どんなところにだって命は存在する。世界は尊い命で溢れている。それを消し去る権利なんか誰にもないよ。そんなこと、絶対に許しちゃいけないんだ」


 シオンは、南極を引き合いに出して命の尊さを力説する。

 ミヅハノメは、シオンがいつもの彼女ではない気がした。

 そのときのシオンからは、何かをいつくしむ優しさや何かを守ろうとする強さがヒシヒシと伝わってきた。

 もちろん、以前のシオンが優しさや強さと無縁だったというわけではない。、ずっと優しく、そして、ずっと強くなった。

 その変化は、加護を与えることでシオンと繋がっているミヅハノメだから感じ取れたもの。シオン自身は気付いていない。


「そうですね。言い方こそ違いますが、わたしも同じ思いです。そんな思いがあったからこそ、あなたといっしょに三百年以上も戦ってこれました。

 しかし、それももうすぐ終わります。下界の時刻は十八時十分。あと十分もすれば満月が現れます。過去への扉が開かれるのです」


 ミヅハノメは、一言一言を噛みしめるように話す。

 待ちに待った瞬間が、すぐそこまで迫っている。


「シオン、あそこにいるのは『彼』ですね。隣にいる女性は、昨日あなたがシンクロした『彼女』ですか?」


 隅田川のほとりに立つ清志郎の姿を確認したミヅハノメは、いっしょにいる綾音のことを尋ねた。


「ああ。清志郎の幼馴染さ。見送りに来たんだ。小さな子供を遠足に送り出す母親みたいだよ。心配症でお節介なんだ、あの小娘は」


「彼女が心配するのも当然です。一時間とは言え、過去の世界へ行くのですからね。シオン、準備の方は大丈夫ですか?」


 綾音の心配症が移ったように、ミヅハノメは心配そうに尋ねる。


「清志郎とのシンクロテストも問題なかったし、水のほこらの場所も確認済みさ。それから、カズワリーの本部で、消火に必要な道具や出火箇所を記した地図も準備した。もし出火してもすぐに火は消すことができる……。ミヅハノメ、あたいたちの計画は絶対に成功するよ」


「あなたがそんな言い方をするのは珍しいですね。その文明の利器は、それほどまでに信頼に足るものなのですか?」


「もちろんさ。何たってカズワリー・フライトの商売道具だからね。でも、あたいが成功を確信しているのは、そんな道具があるからじゃない。清志郎がいるからさ。あいつは約束してくれた。絶対にやり遂げるって。だから、あたいも約束したんだ。あいつを無事に現代へ送り届けるってね」


 シオンの言葉から、これまでにない力強さと深い優しさが滲み出る。「シオンは変わった」。ミヅハノメは、シオンの変化を確信した。


「では、わたしも彼のことを百パーセント信頼することにします。彼にそう伝えてください。そうすれば、もっとがんばってくれるでしょうから」


「それは逆効果だ。神様から絶大な信頼を得ているなんて聞いたら、きっと張り切り過ぎてポカをやらかすよ」


 シオンの冗談交じりの言葉に、ミヅハノメは声を上げて笑う。

 真っ暗な空間に二人の明るい声が響き渡る。


『清志郎、いよいよだ』


 シオンは、心の中で清志郎に語り掛けた。


 不意に、ミヅハノメの笑い声が止んだ。

 同時に、シオンの中に、おびえるような、激しい感情が流れ込んできた。

 ミヅハノメの加護を受けているシオンには、時折彼女の感情や思いが伝わることがある。しかし、それは、シオンが初めて感じる感覚だった。


「ミヅハノメ……?」


「……いとも簡単に結界を突破した……満月まであと五分だというのに……わたしたちにどうこうできるレベルではない……」


 シオンの言葉を無視するように、ミヅハノメは声を震わせる。


「ミヅハノメ、一体何が起きて――」


「――シオン! すぐに彼のもとへ行ってください! 彼を守ってください!」


 闇の中に怒号にも似た、荒々しい声が響き渡る。その声には鬼気迫るものがあり、冷静沈着なミヅハノメのものとはとても思えなかった。

 ミヅハノメが我を忘れる程の脅威が、すぐそこまで迫っていた。


★★


「今日の月の出は、確か六時二十分。あと五分ね」


 綾音は、東屋のベンチから立ち上がると、落ちつかない様子で何度も腕時計に目をやる。


「清ちゃん、シオンさんは戻って来た?」


「いや、まだだ。水の神様と積もる話があるんじゃねえか?」


 防火服に身を包んだ清志郎は、ベンチに腰掛けて手に持ったバールで足元をコンコンと叩く。


「そうだね。シオンさんたち、ずっと二人三脚でがんばってきたんだもんね」


 綾音は、感慨深げな表情でゆっくりと宇宙そらを見上げる。

 綾音の様子を目で追っていた清志郎だったが、その表情が怪訝けげんなものへと変わっていく。


「何だか暑くねえか? どこからか熱風が流れてきてる」


 清志郎は、防火服の襟元えりもとを開きながら、視線を隅田川の方へ向ける。

 いつの間にか、水面みなもには白いもやがかかっている。


「このもやのせいだよ。蒸し器から噴き出した蒸気みたいだもの」


 フェンスから上半身を乗り出して、綾音は、白いもやを両手で振り払うような仕草をする。


 二月半ばの夜間ともなれば、気温は氷点下近くまで下がる。雪が降ってもおかしくはない。現に、二日前の夜、このあたりは雪で覆われていた。

 しかし、今の状況はそれとは程遠い。二人の周りには、夏を思わせる熱気が漂っている。


「なんだよ、これ……」


 清志郎の口から驚きと戸惑いが入り混じったような言葉が洩れる。

 隅田川の水がボコボコと音を立てて沸騰している。もやだと思っていたのは、川の水が気化した水蒸気だった。


「清ちゃん……どうなってるの?」


 綾音は、水面を眺めながら大きな目をさらに大きくする――と、そのときだった。

 水面を覆うもやを突き破るように、水中からが姿を現す。それは、火の粉をまき散らしながら高々と空へ舞い上がると、まるで大蛇が鎌首をもたげるように、上空から綾音を見下ろした。

 清志郎の目が大きく見開く。には見覚えがあった。いや、忘れたくても忘れることなどできないものだった。


「……嫌……嫌だ……来ないで……」


 綾音は、恐怖のあまり、その場にへなへなとしゃがみ込む。目に涙を溜めて、口元を震わせながら首を何度も横に振る。


「アヤ……逃げろ……早く……早く逃げろ!」


 清志郎の叫び声が辺りに響き渡る。

 同時に、二つの特殊消火剤サイレントダウナーが宙を舞い、どす黒い炎の前で真っ白な噴煙が立ち上る。

 しかし、ダメージはなかった。のVTRを見ているようだった。

 は、人間の脆弱さをあざ笑うかのように、これ見よがしに頭をユラリと揺らした。


 必死に手を伸ばして綾音の方へ駆け寄る清志郎だったが、綾音との距離は思うように縮まらない。二人の周りだけ時間の流れが遅くなっている気がした。

 次の瞬間、どす黒い炎が綾音に襲い掛かった。


「アヤぁぁぁ!!!」


 清志郎の悲痛な叫び声が響き渡ったとき、綾音の姿はもうどこにもなかった。

 荒い呼吸を繰り返しながら、清志郎は、その場に呆然ぼうぜんと立ち尽くす。

 すると、は清志郎の方を向いて再び頭をユラリと揺らす。「今度はお前の番だ」。そんな台詞を吐き出すように。


「許さねえ……てめえだけは……絶対に許さねえ!」


 どす黒い炎を睨みつけると、清志郎は、震える手で特殊消火剤サイレントダウナーを握り締めた。

 そのとき、どこからか、金属を電動カッターで切断するような、不快な音が聞こえた。

 どす黒い炎の動きが止まる。裂け目が走り、炎の中から半透明の青い球状のものが飛び出してきた。その中には、放心したような表情を浮かべる綾音の姿があった。

 清志郎は言葉を失う。目の前で何が起きているのか理解できなかった。

 不意に、背後から大きな声が聞えた。それは、清志郎がよく知っている声だった。


『汚い手であたいの仲間に触るんじゃないよ! このクソ野郎が!』



 つづく

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