第42話 外の世界
★
「外へ出てはいけません」
幼い頃の綾音には、そんな言葉が付いて回った。
生まれつき身体が弱かったことで幼少期は入退院を繰り返した。突然気分が悪くなり動けなくなるのも日常茶飯事。一人で外出することは許されず、出掛けるときは、いつも誰かといっしょ。移動手段はもっぱら運転手付きの自家用車。
小学四年生になった頃、体調が安定してきたことで小学校へ一人で行くことが許される。しかし、同年代の子と放課後に外で遊んだり休みの日に出掛けることは相変わらずご
経済的に恵まれた環境に置かれ、欲しいものは何でも手に入った。にもかかわらず、綾音はいつも飢餓感と孤独感に
そんな中、タブーを犯そうとする者が現れる。
その不届き者の名前は渡清志郎。隅田川のボールペンの一件以来、清志郎は何かと綾音に付き
「西園寺さんと外へ行ってもいいですか?」
初めて綾音の家を訪れたとき、清志郎の口からそんな言葉が飛び出した。
結果は、火を見るより明らかで、綾音の母親からけんもほろろに断られた。どこの馬の骨ともわからない輩が、病弱な娘を外へ連れ出そうというのだから当然と言えば当然だ。
しかし、清志郎は諦めなかった。
次の日も訪ねてきて同じことを言った。その次の日も、またその次の日も、懲りることなく同じ行動に出た。どんなに
ただ、いつまで経っても取り付く島が無い状況は変わらなかった。「大事な娘にもしものことがあったら取り返しがつかない」。綾音のことを人一倍心配する母親が清志郎の申し出を
一方で、母親は、綾音に友達ができたことをうれしく思っていた。清志郎のことを気に入っている節さえあり、しきりに家の中で交友することを勧めた――が、清志郎は、母親の考えを由としなかった。綾音の家にクラスメートを連れてくることは可能であるが、それが綾音にとってプラスになるとは思えなかったから。
家の中は、いわゆる「閉鎖空間」であり、常に監視の目が光っている。互いの距離を縮めることは期待できず、かえって逆効果になることもある。対して、家の外は「自由空間」であり、ざっくばらんに接することで互いの距離を縮めることが期待できる。その過程で何かしらトラブルが生じることもあるが、それは、人と人とが互いを理解していくうえで必要なプロセスであり、長い目で見ればマイナスになるものではない。
★★
「お母さん、お願いがあるの」
清志郎が訪ねて来て二週間が経ったある日、だんまりを決め込んでいた綾音が初めて口を開く。
「私、渡くんと外へ行きたい」
綾音から発せられた、想定外の言葉に、母親は綾音を
「私、元気になる。みんなのお荷物にならないようにがんばる。いつか、渡くんが困っているとき力になりたいの。お母さん、お願い」
それは、綾音の決意表明だった。
綾音は「制約」を受けていたが、同時に「保護」も受けていた。制約がなくなることは保護がなくなることを意味する。言い換えれば、今の綾音が一人で外に行けば、楽しいことがある反面、たくさんの辛いことにも遭遇する。そのことは、綾音自身もわかっていた。わかっていながら決断した。清志郎といっしょならがんばれそうな気がしたから。今がんばらなければ一生後悔すると思ったから。
綾音の熱意に負けた母親は、小さく息を吐くと条件付きで外出を許可する。
その瞬間、綾音は、清志郎に向かって満面の笑みを浮かべる。これまで見せたことのない、子供らしい笑顔だった。
★★★
それから二年の月日が流れ、小学六年になった清志郎たちは栃木県日光市に二泊三日の修学旅行に出掛ける。
綾音はと言えば、この二年間、健康管理と体力作りに努め、病弱だった体質が大幅に改善された。その改善ぶりたるや主治医も舌を巻くほどで、彼女の並々ならぬ努力の結果だった。
綾音がそこまでがんばれた要因の一つに「修学旅行に行きたい」という、強い思いがあった。小学校卒業後、綾音は中高一貫の女子校へ進学することが決まっていた。清志郎と離ればなれになることはわかっており、修学旅行を思い出作りの場にしたいと考えていた。
修学旅行の日が近づくにつれ、綾音の顔には緊張の色が濃くなっていった。
前日には、それまで感じたことのない、ピリピリした雰囲気が全身を覆い、声を掛けるのも
そして、修学旅行当日――綾音は呪縛から解き放たれたような、清々しい笑顔を見せる。前日までとは打って変わった様子に、綾音の中で修学旅行の位置づけがどれほど重要なものであるかが
こうして、綾音はプレッシャーに打ち勝ち、清志郎と修学旅行へ出掛けることとなった。
しかし、そんな綾音をアクシデントが襲う。
二日目の朝、宿を出発しようとした矢先、綾音は貧血で倒れてしまう。
その日は戦場ヶ原や中禅寺湖を散策する、アウトドアのイベントが予定されていたため、綾音は大事をとって宿舎で休息を取ることとなった。
本心を言えば、みんなといっしょに行きたかった。しかし、その反面、誰にも迷惑をかけたくなかった。これまでのようなお荷物にはなりたくなかった。
綾音は、旅館が用意してくれた、こじんまりとした和室に、一人ポツンと寝かされた。
布団の中からぼんやりと天井を眺める。鳥の鳴き声といっしょにカーテンの隙間から
「私……何やってるんだろ……」
ポツリと呟いた瞬間、やりきれない思いが胸を
――トントン――
不意にドアをノックする音が聞こえた。綾音は、慌てて頭から布団を被る。
「西園寺、入るぞ……! 寝てるのか?」
声を聞いた瞬間、心臓がトクンと音を立てる。
顔を見なくても、それが誰の声であるのか、すぐにわかった。ただ、どうしてこんなところにいるのか、わからなかった。
布団から顔を覗かせると、脇に座っているのは紛れもなく清志郎だった。
「渡くん、こんなところで何してるの!?」
思わず大きな声が出た。
「なんだ。起きてたのか」
「なんだじゃないよ! せっかくの修学旅行なんだよ? 私のことなんか放っておいて! 私、渡くんやみんなに迷惑をかけたくないの!」
視線を逸らしながら、綾音は大声で捲し立てる。
綾音の気持ちは複雑だった。うれしくないと言えば嘘になる。ただ、お荷物になりたくないという、強い思いがあった。
「迷惑なんかかけてねえよ。俺にも他のみんなにも」
「そんなことない! 渡くんがここにいること自体、迷惑をかけてるってことだよ! きっと渡くんがいなくてつまらないと思ってる子もたくさんいる! だから、私がみんなに迷惑をかけてるんだよ!」
涙が
綾音は再び頭から布団を被る。
「お前、何か勘違いしてねえか? 俺がここへ来たのは、俺一人で決めたことじゃねえ。クラスみんなで話し合った結果だ。反対するヤツは誰もいなかったぞ」
清志郎の言葉に綾音は耳を疑った。涙を拭って布団から顔を半分覗かせる。
「嘘だよ。そんなことあるわけない。だって、みんな、私のことお荷物だと思っているんだから」
「お前がそう思ってるだけだろ? 何なら証拠見せてやろうか?」
「証拠……?」
綾音が小首を傾げたとき、どこからか携帯電話の着信音が聞えた。
「ちょうど良かった。一発目が来たみてえだ」
清志郎は、ズボンのポケットから携帯電話を取り出して着信メールを開く。
「鈴木先生の携帯だ。今日一日借りてきた。ほら、見てみろよ」
携帯のメールを見た瞬間、綾音は驚きの表情を浮かべる。そこには、クラスメートが写った写真とクラスメートからのメッセージがあったから。
「綾音ちゃんへ いっしょに行けなくて残念 でも心配しないで こちらの様子はしっかり報告するから いっしょに行っているのと同じだよ そちらの様子も教えてね 清志郎くんを行かせたから何でも言ってください まずは戦場ヶ原ナウ」
綾音の驚いた顔が再び泣き顔に変わる。さっきと違うのは、悔し涙ではなく、うれし涙であること。
「わかったろ? 誰もお前をお荷物だなんて思っちゃいねえ。お前は俺たちの仲間だ。お前が二年間一生懸命がんばってきたことをみんな知ってる。みんな、お前をすげえヤツだと思ってる。西園寺、外に出てきてくれてありがとな」
清志郎の言葉に、綾音は両手で涙を拭いながら何度も頷く。しかし、溢れる涙は止まらなかった。
再びメールの着信音が鳴る。
「……マジかよ!?」
メールを見た瞬間、清志郎は大きな声を上げる。
「清志郎へ 西園寺さんの様子が心配だから二人のツーショットを撮って送ること それから二人きりだからって変なことはしないように 俺たちジャングルナウ」
今度のメールは男子からだった。
男子数名が木によじ登ってサルの顔真似をしている。
それを見た綾音は、思わずプッと噴き出した。
「仕方ねえな。西園寺、撮るぞ」
「えっ? 撮るって何を?」
「あいつらが言ってた写真だよ。お前はそのままでいい。俺が隣に行くから」
そう言うが早いか、清志郎は綾音の隣に横になった。
予期せぬ出来事に、綾音は心臓が口から飛び出しそうになる。
小さい頃、何度も倒れたことはあったが、その状況は間違いなく卒倒ものだった。
綾音は、目を大きく見開いて身体を硬直させる。
「上手く収まらねえな……。もう少し近くに寄るぞ」
清志郎の肩が綾音の肩にピッタリと触れる。清志郎の顔が息がかかるぐらいの距離にある。
綾音の顔が猿のように真っ赤になった。
「お前……顔が赤いけど、熱が出てきたんじゃねえか?」
清志郎が心配そうに綾音の顔を覗き込む。
真っ直ぐ見つめる、澄んだ瞳には、綾音の顔が映っていた。
「だ、だ、大丈夫だから! いいから早く撮って! ぐずぐずしないで!」
こうして綾音の修学旅行の二日目は「宿舎に居ながらクラスメートと屋外で過ごす」といった、奇妙なものとなった。同時に、一生忘れられない、大切な思い出となった。
その日の夜、みんなが寝静まった後、綾音は二年前のことを思い出していた。
自分を外へ連れ出してくれた清志郎に深く感謝した。そして、改めて、自分の思いを胸に刻み込んだ。
『渡くんが困っているとき、私は必ず力になる』
つづく
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