第43話 勇気


 隅田川の水のしずくで作られた、直径百メートルに及ぶ、巨大な球体・水の檻ウォータージェイル

 シオンは、そこに憎悪の炎を閉じ込めると、中を真空状態にして消し去ろうとした。しかし、大量の水を操りながら広範囲の真空を作り出すには、力が圧倒的に足りなかった。

 シオンは、その場に崩れ落ちるようにガクッとひざを折ると、両手を川面に付けて、完走した直後の運動選手アスリートのように激しく肩を上下させる。そんな彼女をあざ笑うかのように、憎悪の炎が勢いを取り戻していく。


「シオン!」


 清志郎の声が辺りに響き渡る。

 シオンは、ゆっくりと顔を上げて虚ろな眼差しであたりを見回す。

 真っ白な水蒸気が漂う中、隅田川の水深は数センチまで減り、ところどころ川底があらわになっている。水のほこらが攻撃されるのは時間の問題だった。


 清志郎と綾音がいる、水の球体の周りでは、十体の炎が一つになって攻撃を仕掛けている。十倍にパワーアップした炎の力は凄まじく、壁が少しずつ浸食されていく。こちらも長くはもたない状況だった。


「こいつらのことはいい! 過去の世界へ行くことを優先しろ! 三分間、こいつらの動きを止めてくれ! 俺がほこらの扉を開ける!」


 今にも力尽きそうなシオンに、清志郎は、再び過去の世界へ行くことを提案する。

 しかし、間髪を容れず、シオンは首を横に振った。


『何度も同じことを言わせるんじゃないよ。誰かが傷つくのはもうたくさんだ……。過去へ行くのはこいつらを片付けてからさ……。勝負は……これからだよ!』


 シオンは、足元をふらつかせながら必死の形相で立ち上がると、声を絞り出すように歌い始めた。

 水滴が再び炎の周りを高速で回り始める。炎の動きが止まり、水の壁の振動も収まっていく。

 しかし、炎の勢いが衰えることはなく、今の状態に抑え込むのがやっとだった。


「畜生……」


 清志郎は、歯を食いしばって両手の拳を握り締める。黙って見ていることしかできない自分がとても歯痒はがゆく、そして、情けなかった。


 そんな清志郎の様子を、綾音はじっと見ていた。何も言わずに、ただ見続けていた。

 綾音には、シオンの姿も見えなければ声も聞こえない。しかし、清志郎の言動と炎の動きから今の状況を把握することができた。

 このタイミングで二人が過去の世界へ行けば、残された綾音たちは、間違いなく殺される。そんな状況を由としないシオンは、憎悪の炎を封じることなく過去へ行くことをかたくなに拒んでいる。

 ただ、今の状況では、万に一つの勝ち目もない。シオンが敗れた瞬間、微かな希望はついえてしまう。


 綾音の頭の中を様々な思いが駆け巡った。

 いつもなら頭が混乱してパニックに陥っただろう。清志郎に助けを求めただろう――が、このときは違った。綾音は、自分が清志郎のために何ができるかを考えていた。

 小さい頃から清志郎は、いつも自分のそばにいてくれた。いつも自分を守ってくれた。綾音はいつも思っていた。「いつか清志郎の力になりたい」と。


★★


 そのときだった。

 綾音の目の前に、一人の少女が現れる。

 茶色味がかった、長い髪をツインテールに結び、赤いランドセルを背負っている。目尻の下がった、大きな瞳で綾音の顔をじっと見つめている。

 それは、紛れもなく小学生のときの綾音だった。


『あのとき、渡くんが外へ連れ出してくれたから、私は、外の世界に触れることができた。クラスに融け込めて友達もたくさんできた。もしずっと家の中にいたら、私は私でなくなっていた。今のあなたもあなたではなかった。西園寺綾音は、全く別の人間になっていた』


『うん、そうだね。みんな清ちゃんのおかげだよ』


 彼女の言葉に、綾音は感慨深げな表情を浮かべる。


『あなたにしかできないことがある。それは、とても勇気が要ること。でも、渡くんを信じているなら、きっとできるはず。今も渡くんを信じることができる?」


『もちろんだよ。私の気持ちは、あのときから何も変わらない。清ちゃんは、いつだって私のヒーローだから』


『よかった。じゃあ、大丈夫だね?』


『うん、大丈夫。できるよ』


 綾音が笑顔で頷くと、彼女は、小さく手を振りながら立ち上る水蒸気の中へと消えていった。

 綾音は、水の壁の前に立ってジッと外の様子を見つめた。炎の動きがさっきより活発になっている。


「清ちゃんは、過去の世界へ行って、シオンさんとシオンさんの仲間を救うの。そうすれば、清ちゃんの大切な人たちを取り戻すことができる」


 突然、綾音が独り言のように呟く。

 

「アヤ、急に何を言って……」


 清志郎の言葉が途切れる。

 なぜなら、そこには、いつもと違う綾音がいたから。優しい眼差しは、いつもと同じ。しかし、瞳の奥から、何かを決意したような力強さがあふれ出ている。


「シオンさん! 私たちを守ってくれてありがとう!」


 大きく息を吐くように、綾音はシオンに語り掛ける。

 シオンは、虚ろな眼差しを綾音の方へと向ける。


「でもね、ここで勝ってもらわなくてもいい! 最後に勝ってくれたらそれでいいの! だから、今はそんなにがんばらないで! シオンさん、お願い!」


 憎悪の炎が水の壁に攻撃を仕掛けるたび、大きな音とともに振動が伝わる。壁の表面が大きく波打っている。いつ壁が破壊されてもおかしくない状況だった。

 綾音は、清志郎の方へゆっくりと顔を向けた。


「小学生のとき、清ちゃんが外に連れ出してくれたから今の私がある。辛いこともあったけれど、今は良い思い出だよ。あのとき、勇気を出して本当に良かった。清ちゃん、ありがとね」


 綾音は、目尻の下がった大きな目を輝かせて、とびきりの笑顔を見せた。


「お前……こんなときに何言ってるんだよ?」


 清志郎は、戸惑ったような様子を見せる。

 そんな清志郎を後目しりめに、綾音は、いつもの穏やかな口調で言った。


「サヨナラじゃないよ。だって、一時間後には、また会えるんだもん。清ちゃん……行ってきます!」


 家の玄関から出掛けるように、綾音は水の壁を通り抜けていった――憎悪の炎が席巻する、外の世界へ。


「アヤぁぁぁ!!!」


 清志郎は、悲痛な声を上げながら綾音の背中へ手を伸ばす。

 しかし、綾音の姿はもうどこにもなかった。


『……嘘……だろ……?』


 シオンの口から消え入りそうな声が漏れる。


『……どうして……どうしてこんなことに……どうしてなんだよ!』


 シオンは、身体を震わせながら天を仰ぐ。

 一筋の涙が、ほおを伝って流れ落ちた。


「シオン……」


 清志郎が伏し目がちにポツリと呟く。


「俺には何も言えねえ。もともと、アヤを置いて過去の世界へ行こうとしてたんだからな……。ただ、あいつは、俺の言うことをわかってくれた。俺がしようとしていることに納得してくれた。だから、俺は悲しまねえ。ここで悲しんだら、俺は単なる偽善者だ。あいつに申し訳が立たねえ」


『清志郎! あんたがそんなことを吹き込んだから、綾音はあんな行動に出たんだ! 自分がお荷物になっていると思ったんだ! あんたの一言で、綾音は……綾音は……死んじまったんだよ!』


「死んでなんかいねえ! アヤは俺が絶対に助ける!」


 間髪を容れず、清志郎の声が辺りに響き渡った。

 清志郎の真剣な眼差しがシオンに突き刺さる。


「シオン、俺のことをどんなに責めたっていい。ひでえヤツだと好きなだけののしったって構わねえ。土下座しろと言うなら後でいくらでもやってやる……。ただ、一つだけ、俺の頼みを聞いてくれ」


 一点の曇りもない瞳が、真っ直ぐにシオンを見つめている。

 シオンは、思わずその瞳に吸い込まれそうになった。


「今すぐ、俺を過去の世界へ連れて行ってくれ。俺ができることを百パーセントやらせてくれ……。アヤは言った。一時間後にまた会えると。あいつは俺を信じてくれた。あいつの言葉は、この世界にいる、全ての人の希望でもある。俺はこのまま終わるわけにはいかねえ。シオン、頼む! 俺だけでもいい! 過去の世界へ連れて行ってくれ!」


 清志郎が叫んだ瞬間、轟音とともに水の壁に大きな穴が開く。流れ込んできた、どす黒い炎が、清志郎目掛けて襲いかかった。


「くっ……」


 清志郎は、無念の表情を浮かべて両手を顔の前に掲げた。


『無茶言うんじゃないよ。あんた一人を過去へ行かせるなんて器用なこと、できるわけないじゃないか』


 耳元で声が聞こえた。

 そこには、涙を流しながら微笑むシオンがいた。いつの間にか、清志郎の身体は、薄い水の膜ですっぽりと覆われている。


『迷惑をかけて済まなかった。綾音のおかげで目が覚めたよ……。清志郎、これから三分間、あたいは全力であんたを守る。その隙に水のほこらの扉を開けるんだ。やれるかい?』


「シオン……」


 清志郎は、熱いものがこみ上げてくるのをグッとこらえる。そして、人差し指でヘルメットのひさしを突き上げながら顔を上げた。


「できねえわけがねえだろ。俺を誰だと思ってる? 俺は、カズワリーフライトの隊長・渡清志郎だ」


『ふぅん、大きく出たね』


 シオンは、小さく微笑むと憎悪の炎をキッと睨みつけた。


『そういうわけだ。悪いが、三人あたいらは絶対に負けない』



 つづく

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