第43話 勇気
★
隅田川の水の
シオンは、そこに憎悪の炎を閉じ込めると、中を真空状態にして消し去ろうとした。しかし、大量の水を操りながら広範囲の真空を作り出すには、力が圧倒的に足りなかった。
シオンは、その場に崩れ落ちるようにガクッと
「シオン!」
清志郎の声が辺りに響き渡る。
シオンは、ゆっくりと顔を上げて虚ろな眼差しであたりを見回す。
真っ白な水蒸気が漂う中、隅田川の水深は数センチまで減り、ところどころ川底が
清志郎と綾音がいる、水の球体の周りでは、十体の炎が一つになって攻撃を仕掛けている。十倍にパワーアップした炎の力は凄まじく、壁が少しずつ浸食されていく。こちらも長くはもたない状況だった。
「こいつらのことはいい! 過去の世界へ行くことを優先しろ! 三分間、こいつらの動きを止めてくれ! 俺が
今にも力尽きそうなシオンに、清志郎は、再び過去の世界へ行くことを提案する。
しかし、間髪を容れず、シオンは首を横に振った。
『何度も同じことを言わせるんじゃないよ。誰かが傷つくのはもうたくさんだ……。過去へ行くのはこいつらを片付けてからさ……。勝負は……これからだよ!』
シオンは、足元をふらつかせながら必死の形相で立ち上がると、声を絞り出すように歌い始めた。
水滴が再び炎の周りを高速で回り始める。炎の動きが止まり、水の壁の振動も収まっていく。
しかし、炎の勢いが衰えることはなく、今の状態に抑え込むのがやっとだった。
「畜生……」
清志郎は、歯を食いしばって両手の拳を握り締める。黙って見ていることしかできない自分がとても
そんな清志郎の様子を、綾音はじっと見ていた。何も言わずに、ただ見続けていた。
綾音には、シオンの姿も見えなければ声も聞こえない。しかし、清志郎の言動と炎の動きから今の状況を把握することができた。
このタイミングで二人が過去の世界へ行けば、残された綾音たちは、間違いなく殺される。そんな状況を由としないシオンは、憎悪の炎を封じることなく過去へ行くことを
ただ、今の状況では、万に一つの勝ち目もない。シオンが敗れた瞬間、微かな希望は
綾音の頭の中を様々な思いが駆け巡った。
いつもなら頭が混乱してパニックに陥っただろう。清志郎に助けを求めただろう――が、このときは違った。綾音は、自分が清志郎のために何ができるかを考えていた。
小さい頃から清志郎は、いつも自分のそばにいてくれた。いつも自分を守ってくれた。綾音はいつも思っていた。「いつか清志郎の力になりたい」と。
★★
そのときだった。
綾音の目の前に、一人の少女が現れる。
茶色味がかった、長い髪をツインテールに結び、赤いランドセルを背負っている。目尻の下がった、大きな瞳で綾音の顔をじっと見つめている。
それは、紛れもなく小学生のときの綾音だった。
『あのとき、渡くんが外へ連れ出してくれたから、私は、外の世界に触れることができた。クラスに融け込めて友達もたくさんできた。もしずっと家の中にいたら、私は私でなくなっていた。今のあなたもあなたではなかった。西園寺綾音は、全く別の人間になっていた』
『うん、そうだね。みんな清ちゃんのおかげだよ』
彼女の言葉に、綾音は感慨深げな表情を浮かべる。
『あなたにしかできないことがある。それは、とても勇気が要ること。でも、渡くんを信じているなら、きっとできるはず。今も渡くんを信じることができる?」
『もちろんだよ。私の気持ちは、あのときから何も変わらない。清ちゃんは、いつだって私のヒーローだから』
『よかった。じゃあ、大丈夫だね?』
『うん、大丈夫。できるよ』
綾音が笑顔で頷くと、彼女は、小さく手を振りながら立ち上る水蒸気の中へと消えていった。
綾音は、水の壁の前に立ってジッと外の様子を見つめた。炎の動きがさっきより活発になっている。
「清ちゃんは、過去の世界へ行って、シオンさんとシオンさんの仲間を救うの。そうすれば、清ちゃんの大切な人たちを取り戻すことができる」
突然、綾音が独り言のように呟く。
「アヤ、急に何を言って……」
清志郎の言葉が途切れる。
なぜなら、そこには、いつもと違う綾音がいたから。優しい眼差しは、いつもと同じ。しかし、瞳の奥から、何かを決意したような力強さが
「シオンさん! 私たちを守ってくれてありがとう!」
大きく息を吐くように、綾音はシオンに語り掛ける。
シオンは、虚ろな眼差しを綾音の方へと向ける。
「でもね、ここで勝ってもらわなくてもいい! 最後に勝ってくれたらそれでいいの! だから、今はそんなにがんばらないで! シオンさん、お願い!」
憎悪の炎が水の壁に攻撃を仕掛けるたび、大きな音とともに振動が伝わる。壁の表面が大きく波打っている。いつ壁が破壊されてもおかしくない状況だった。
綾音は、清志郎の方へゆっくりと顔を向けた。
「小学生のとき、清ちゃんが外に連れ出してくれたから今の私がある。辛いこともあったけれど、今は良い思い出だよ。あのとき、勇気を出して本当に良かった。清ちゃん、ありがとね」
綾音は、目尻の下がった大きな目を輝かせて、とびきりの笑顔を見せた。
「お前……こんなときに何言ってるんだよ?」
清志郎は、戸惑ったような様子を見せる。
そんな清志郎を
「サヨナラじゃないよ。だって、一時間後には、また会えるんだもん。清ちゃん……行ってきます!」
家の玄関から出掛けるように、綾音は水の壁を通り抜けていった――憎悪の炎が席巻する、外の世界へ。
「アヤぁぁぁ!!!」
清志郎は、悲痛な声を上げながら綾音の背中へ手を伸ばす。
しかし、綾音の姿はもうどこにもなかった。
『……嘘……だろ……?』
シオンの口から消え入りそうな声が漏れる。
『……どうして……どうしてこんなことに……どうしてなんだよ!』
シオンは、身体を震わせながら天を仰ぐ。
一筋の涙が、
「シオン……」
清志郎が伏し目がちにポツリと呟く。
「俺には何も言えねえ。もともと、アヤを置いて過去の世界へ行こうとしてたんだからな……。ただ、あいつは、俺の言うことをわかってくれた。俺がしようとしていることに納得してくれた。だから、俺は悲しまねえ。ここで悲しんだら、俺は単なる偽善者だ。あいつに申し訳が立たねえ」
『清志郎! あんたがそんなことを吹き込んだから、綾音はあんな行動に出たんだ! 自分がお荷物になっていると思ったんだ! あんたの一言で、綾音は……綾音は……死んじまったんだよ!』
「死んでなんかいねえ! アヤは俺が絶対に助ける!」
間髪を容れず、清志郎の声が辺りに響き渡った。
清志郎の真剣な眼差しがシオンに突き刺さる。
「シオン、俺のことをどんなに責めたっていい。
一点の曇りもない瞳が、真っ直ぐにシオンを見つめている。
シオンは、思わずその瞳に吸い込まれそうになった。
「今すぐ、俺を過去の世界へ連れて行ってくれ。俺ができることを百パーセントやらせてくれ……。アヤは言った。一時間後にまた会えると。あいつは俺を信じてくれた。あいつの言葉は、この世界にいる、全ての人の希望でもある。俺はこのまま終わるわけにはいかねえ。シオン、頼む! 俺だけでもいい! 過去の世界へ連れて行ってくれ!」
清志郎が叫んだ瞬間、轟音とともに水の壁に大きな穴が開く。流れ込んできた、どす黒い炎が、清志郎目掛けて襲いかかった。
「くっ……」
清志郎は、無念の表情を浮かべて両手を顔の前に掲げた。
『無茶言うんじゃないよ。あんた一人を過去へ行かせるなんて器用なこと、できるわけないじゃないか』
耳元で声が聞こえた。
そこには、涙を流しながら微笑むシオンがいた。いつの間にか、清志郎の身体は、薄い水の膜ですっぽりと覆われている。
『迷惑をかけて済まなかった。綾音のおかげで目が覚めたよ……。清志郎、これから三分間、あたいは全力であんたを守る。その隙に水の
「シオン……」
清志郎は、熱いものがこみ上げてくるのをグッと
「できねえわけがねえだろ。俺を誰だと思ってる? 俺は、カズワリーフライトの隊長・渡清志郎だ」
『ふぅん、大きく出たね』
シオンは、小さく微笑むと憎悪の炎をキッと睨みつけた。
『そういうわけだ。悪いが、
つづく
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