第2部 隅田川の歌姫 Diva "Shion'' at Sumida River

 第12話 隅田川の思い出


 西園寺さいおんじ 綾音あやねは、生まれつき身体が弱く、幼少の頃は入院と退院を繰り返した。

 小学校に入学してからも、発熱で学校を休むことは日常茶飯事。授業の途中で気分が悪くなって早退することもあり、四年生になった年、出席日数の不足からもう一度四年生をやり直すこととなる。


 綾音は、同年代の子と比べても思考能力が高く、授業の内容は容易に理解することができた。ただ、激しい運動を禁じられていたため、体育の授業はいつも見学ばかり。定期的な検査のため、午後の授業に出られないこともあった。


 年齢が異なることでクラスメイトと距離を置いていた綾音だったが、特別な扱いを受けることでその距離がさらに遠くなる。次第にクラスで浮いた存在となり、裕福な家庭に対するねたみも手伝い、いつしかいじめの対象となっていた。


「返して! ボールペン、返して!」


 ゴールデンウィークが明けた、五月のある日、下校途中の綾音から悲鳴のような声があがる。

 男子二人・女子二人が綾音を囲み、女子の一人がランドセルからペンケースを抜き取った。それは、どんな嫌がらせにも我関せずといった態度をとる綾音に対し、業を煮やした連中が取った強硬手段だった。


「このボールペン、西園寺さんの宝物なんだ。じゃあ、わたしたちに追いついたら返してあげる」


 ペンケースから赤いボールペンを取り出した女子が、意地の悪い笑みを浮かべながら走り出す。他の三人も後に続き、綾音は必死の形相で四人を追い駆ける。


 隅田川に面した浜町公園はまちょうこうえんへ逃げ込んだ四人は、息も絶え絶えの綾音を見て、嘲笑ちょうしょう罵声ばせいを浴びせる。

 綾音は、苦しそうに胸を押さえ、その場にうずくまった。


「どうした、どうした! 大事なボールペンが隅田川に沈んじゃうぜ!」


 ボールペンを手にした男子が、それを川へ投げ込むような仕草をする。


「止めて! 大事なものなの……! 亡くなったおばあちゃんに……買ってもらったものなの……お願いだから……返して!」


 息も絶え絶えに立ち上がると、綾音は、足元をふらつかせながら四人の方へと近づいていく。


「そんなに大事なものだったんだ。じゃあ、早く取り返さないと大変なことになっちゃうよ。だって、隅田川に沈んだら見つからないもの。鬼さん、こちら、手の鳴る方へ!」


 ボールペンが綾音にとって大切なものだとわかったことで、四人の行動がエスカレートする。

 綾音は、必死にボールペンを取り返そうとするが、そうはさせじと四人はキャッチボールをするようにボールペンを投げ合う。

 足元がおぼつかない綾音は、バランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。


「西園寺さん、大丈夫? でも、こんなボールペンの一つや二つ、どうってことないでしょ? だって、西園寺さんの家、お金持ちなんだから」

「西園寺グループなんて偉そうなこと言ってるけど、もともとはゴミ集めしてたらしいぜ」

「ゴミで金儲け? ブランドの服やカバンも元はゴミだったってわけか?」

「西園寺はゴミ女! ずる休みするゴミ女!」


 次々に心無い言葉が飛び交った。

 綾音は、地面についた両手に力を込めて必死に立ち上がろうとする。しかし、身体が言うことを聞かなかった。


「おばあちゃん……」


 脳裏に祖母の優しい笑顔が浮かんだ。

 その瞬間、綾音の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


★★


「お前ら、そんなことして恥ずかしくねえのかよ?」


 不意に誰かの声が聞こえた。

 顔を上げた綾音の目に、逆光の中、声の主と思しき誰かのシルエットが映る。


「清志郎、何かっこつけてんだ? 正義の味方にでもなったつもりかよ?」

「バカじゃないの? こんなゴミ女かばってよぉ」

「もしかしたら、渡って西園寺さんのこと好きなの? 変なヤツ」

「渡はバカ! バカは渡!」


 今度は、綾音と四人の間に割って入った清志郎に矛先が向けられた。

 清志郎の顔に怒りの表情があらわになる。


「てめえら……言いてえことはそれだけか!」


 清史郎の口から、あたりに響き渡るような大きな声が発せられた。

 清志郎は男子の一人を蹴り飛ばすと、後ろからつかみ掛ってきたもう一人を柔道の一本背負いのように芝生の上に投げ飛ばす。そして、呆気にとられる、二人の女子の顔をギロリと睨みつけた。


「い、いきなり何するのよ! 先生に言いつけるわよ!」

「暴力男! 暴力反対! 暴力反対!」


「うるせえ! てめえらが西園寺にやってるのは暴力そのものだろうが! 自分がやられたらどんな気がするか考えてみろ! このクソッタレが!」


 清志郎の気迫に圧倒されたのか、二人は口をつぐんで涙目になる。


「よくもやりやがったな……こうしてやるぜ!」


 蹴り飛ばされた男子が顔をしかめながら立ち上がり、手に持っていたボールペンを隅田川の方へ放り投げる。


「いやぁぁぁぁぁ!」


 あたりに悲痛な叫び声が響き渡る。

 綾音は、両手で口元を押さえて目を見開く。


「ざまぁ見ろってんだ!」

「じゃあな! ゴミ女!」

「いい気味よ! このバカ!」

「さようなら~おばあちゃんのボールペンちゃ~ん」


 四人は捨て台詞を吐きながら、逃げるようにその場を後にする。


 大好きだった祖母が小学校の入学祝いにくれたボールペン。それは、病弱な綾音が元気になることを祈願してオーダーメイドで作らせたもの。世界に一つしかない、プライスレスなもの。二年前、祖母が他界したことで、それは形見の品となった。


 隅田川は、深いところで水深が五メートル以上ある。水面は穏やかに見えるが、流れはかなり速い。どうにもならないことは明らかだった。


「おばあちゃん、ごめんなさい……ごめんなさい……」


 綾音は、視線を地面に落として同じ言葉を繰り返した。


 不意に何かが水に飛び込むような音が聞こえた。

 音の方に目をやると、そこには信じられない光景があった。なんと、ランニングシャツと半ズボンの清志郎が川の中を泳いでいる。


「わ、渡くん……!? 止めて! 危ないよ! すぐに川から上がって!」


 綾音の口から悲鳴のような声が発せられる。

 しかし、そんな声に耳を貸すことなく、清志郎は、ボールペンが投げ込まれた場所を目指して黙々と泳いでいく。


 綾音は、荒い呼吸をしながら清志郎の動きを目で追った。

 突然、清志郎の姿が水中へと消える。


「渡くん!」


 綾音の金切り声が響く。唇を震わせながら食い入るように水面を見ていたが、清志郎が上がって来る様子はない。


「待ってて! 誰か呼んでくるから!」


 綾音は、血相を変えて立ち上がる。

 そのとき、水しぶきをあげて、川の中から清志郎の上半身が勢いよく飛び出した。

 

「あったぞ! 西園寺!」


 清志郎は、顔を左右に振って水を振り払うような仕草をすると、右手で赤色のボールペンを高々と掲げた。水面が夕日に照らされ、清志郎の姿がキラキラと輝いている。

 綾音は、全身の力が抜けたようにヘナヘナとその場に座り込んだ。


★★★


「濡れちまったけど、大丈夫だよな?」


 荒い息をつきながら岸にあがった清志郎は、笑顔でボールペンを手渡す。

 綾音の、目尻の下がった、大きな目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。


「バカなの!? どうしてあんな危ないことするの!? 足がつかないぐらい深いんだよ! 流れもすごく速いんだから! 水温だって冷たいし……死んじゃったら……どうするのよ!」


 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、綾音は大声でまくし立てる。

 清志郎は、「まいったなぁ」と言わんばかりにポリポリと指で頬を掻く。


「隅田川のことはよくわかってる。俺、ずっと隅田川を見て育ったから」


 清志郎は、隅田川の水面みなもに目を向けて照れくさそうに笑った。


「そのボールペン、西園寺の大事なものだろ? 必死に取り返そうとするお前を見てたら、命と同じぐらい大事なものだって思った。そんな大事なものが無くなっちまったら大変じゃねえか。命を落としたようなものだろ?」


 清志郎がサラリと言った一言に、綾音は言葉を失う。

 はっきり言って、清志郎の行動は無茶苦茶だった。一つ間違えば命を落としていた。たかがボールペンのために命を危険に晒すなんて常軌を逸している。

 そんな気持ちとは裏腹に、綾音はこれまで感じたことのない不思議な感覚――とても温かく、とても心地良い何かを感じていた。


「西園寺、お前、隅田川好きか?」


「えっ?」


 唐突な質問に綾音は思わず聞き返した。

 清志郎は、ゆっくりと視線をオレンジ色の空へ向ける。


「俺は大好きだ。嬉しいときも悲しいときもよくここへ来た。川の流れを見ていたら、悲しい気持ちが消えていった。嬉しい気持ちはもっと大きくなった。そんな隅田川が俺を裏切るなんて考えられなかった。だから、思い切って飛び込んだ。

 お前のボールペン、水の底でじっとしてた。どこにも行かずにおとなしくしてた。それに、水の流れも緩やかで流されずに済んだ。みてえだった」


 清志郎のあっけらかんとした物言いに、綾音は呆気にとられる。

 そんな綾音を後目しりめに、清志郎は無邪気な笑顔を見せる。


「そろそろ帰るか。家まで送ってやるよ。あいつらが待ち伏せてるといけねえからな。西園寺、歩けるか?」


「うん。大丈夫」


 清志郎が歩き始めると、綾音は後に続いた。

 歩くたびにポタポタと水が滴り落ちる。小さな背中がとても大きく見えた。


「ねえ、渡くん?」


「なんだ?」


 綾音が躊躇ためらいがちに声を掛けると、清志郎がゆっくりと振り返る。

 夕日のオレンジ色に彩られた、隅田川の水面みなもはとても綺麗で、そんな隅田川をバックにたたずむ、ずぶ濡れの清志郎はとてもかっこよかった。

 綾音の顔に、はにかんだような笑みが浮かぶ。


「私、好きだよ……隅田川」



 つづく

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