第13話 幼馴染


「ああ、美味しかった。やっぱりカツ丼は『小春軒』だね」


 格子戸を開けて外へ出ると、綾音は両手でお腹をさすりながら、隣りの清志郎へ満足げな笑顔を向ける。

 時刻は十二時を少し回ったところ。人気店と言うこともあり、店の入口には長い行列ができている。


「二十年以上経つのに味が変わらねえのはすげえよ。前回食ったのは、俺がまだ霞が関にいたときだから二年以上前だ。アヤは会社が近いから食べる機会があったんじゃねえか?」


 清志郎の言葉に、綾音は「その通り」と言わんばかりに、二度三度、首を縦に振った。


「半年ぶりかな。ランチはほとんど会社の食堂しゃしょくで済ませてるし、外で食べるときはフレンチやイタリアンが多いから。渋い洋食屋さんってなかなか一人で入れないしね。前回もお母さんと買い物に出掛けた帰りだったよ。

 そういう意味では、清ちゃんがまとまったお休みを取れたのは、すごくラッキーだったかも。『出勤停止』に感謝しないとね」


 綾音は、声を潜めて清志郎に悪戯いたずらっぽい眼差しを向ける。


「こんなところで暴露するんじゃねえよ。出勤停止中にうろちょろしてるのが消防庁に知れたら面倒なことになるだろ?」


 清志郎は、周りを見ながら小声で釘を差す。


「はい、わかりました。『渡清志郎が一週間の出勤停止処分を受けている』などということを、人通りがあるところでは口にしないよう注意いたします」


 綾音は、棒読みのような口調で言い放つと、口を真一文字に結ぶ。必死に笑いを堪えているのがわかる。


「お前……わざと言ってるだろ?」


「あら? わかっちゃった?」


 やれやれといった顔をする清志郎に、綾音は、悪戯いたずらを成功させた子供のようにくすっと笑った。


「……もうこんな時間。そろそろ会社に戻るね。今日はありがとう。美味しいランチまでご馳走になっちゃって」

 

 綾音は腕時計に目をやると、名残惜しそうにペコリと頭を下げる。


「こっちこそ悪かったな。お袋の病院にまで付きあわせちまって」


「ううん、この前行けなかったから。お母様もお元気そうで良かった。清ちゃん、また誘ってね。今回みたいなことがないと、溜まった年休がなかなか消化できないから。あっ、お泊り付きの遠出もウエルカムだからね」


 綾音は小さく手を振って、歩行者信号が点滅する交差点を足早に渡って行く。

 後ろ姿を目で追っていた清志郎だったが、綾音の姿が見えなくなった瞬間、ため息をついて思いつめたような表情を浮かべた。


★★


 真っ暗な部屋の中、真夜中の静寂を破るような叫び声が響き渡る。

 二月だというのに身体は汗びっしょりだった。

 上半身を起こして枕元の時計に目をやると時刻は午前四時。


「またあの夢……」


 荒い呼吸をしながら、清志郎は両手で顔の汗を拭った。


 全身をどす黒い炎に包まれた、カズワリーの四人が必死に助けを求めている。しかし、清志郎にはどうすることもできない。いつの間にか、炎は清志郎の全身に絡みついている。全身が焼かれるような激痛に清志郎は絶叫する――いつもそこで目が覚める。


 人前では気丈に振る舞っていたが、清志郎が受けた心の傷は思いのほか深かった。時間が経つにつれダメージは大きくなり、清志郎の精神をじわじわとむしばんでいった。

 誰かに相談しようと思ったこともある。しかし、できなかった。いや、「しなかった」が正しい。「四人を死に至らしめた責任は自分にある。自分が苦しむことが四人への償いになる」。そんな考えが清志郎の頭の中にあった。後ろ向きな考えであることはわかっていた。そんな考えを持ち続ければ、自分が壊れてしまうとも思った。でも、それで良かった。清志郎は、自分が壊れることで救われるような気がしていた。


★★★


 黒い大理石のモニュメントに刻まれた「浜町公園はまちょうこうえん」の文字。清志郎は、隅田川に隣接するリバーパークの入口に立っていた。

 家と小学校との間に位置することから、下校途中にいつも立ち寄っていた。綾音と別れた後、どこをどう歩いたのか覚えていないが、いつの間にかそこに辿り着いていた。


 数年ぶりに訪れた浜町公園だったが、雰囲気はあの頃のままだった。

 懐かしさを胸に樹木に囲まれた遊歩道を進んでいくと、視界が開け、隅田川の景色が目に飛び込んできた。陽の光が降り注ぎ、水面みなもがキラキラと輝きを放っている。

 清志郎の脳裏に小学生のときの記憶が蘇る。


「――服を着たまま隅田川へ飛び込んだこともあった。あの頃の俺は怖いもの知らずだった。すごく楽しかった」


 どこまでも続く、青い空を見上げながら、清志郎は、弁論大会で主張をするように、当時の出来事を口にする。


「でも……いつの間にか、俺は変わっちまった。情けねえ俺になっちまった」


 清志郎は、何かを思い出したようにグッと唇を噛む。

 あどけない少年のような表情が、憂いを帯びたそれへと変わった。


「清ちゃんは、あの頃と何も変わらないよ」


 突然、背中越しに穏やかな声が聞こえた。

 慌てて振り返ると、そこには、会社へ戻ったはずの綾音が立っていた。


「アヤ! どうして、ここに……お前、仕事に戻ったんじゃなかったのかよ!?」


 驚きを隠せない清志郎に、綾音はで微笑む。


「だって、独りにするのが心配だったんだもん。一人で重いものを抱え込んでいる清ちゃんを……。午後も有休取っちゃったよ」


 綾音は、左右の髪を耳に掛けると、口角をあげて笑った。


「私は、清ちゃんみたいに頭も良くないし行動力もない。すぐ感情的になるし気の利いたことも言えない。でもね、話を聞いてあげることはできる。誰かに話すことで心が軽くなることってあるよ。だから、話してくれない? 今の清ちゃんを見てるのはとても辛いから」


 綾音は、目尻の下がった大きな瞳を揺らしながら、顔を隅田川の方へ向ける。

 清志郎の瞳に、陽の光を浴びて輝きを放つ隅田川と綾音の優しい横顔が重なって映る。その光景は、とても眩しく心が穏やかになるものだった。「苦しむことで救われる。壊れることが罪滅ぼしになる」。そんな自虐的な考えを抱いている自分が情けなく思えた。前に進む努力を放棄し後ろばかり見ていることを誰が望んでいるだろう。少なくともは、絶対に望んではいない。


「アヤ、ありがとな。お前が聞いてくれたら、吹っ切れそうな気がする。頼めるか?」


「もちろんだよ。私はそのために来たんだから……あれ? 清ちゃんの顔つき、ランチのときと変わってる。もしかしたら、私の取り越し苦労だった?」


 綾音は、清志郎のどこか吹っ切れたような顔をしげしげと見つめる。

 清志郎は照れ臭そうに笑った。心の中を見透かされたような気がしたから。

 

「やっぱり、お前はすげえよ。さすがは幼馴染だ。単なるアラサーじゃねえよな」


「な、なに訳のわからないこと言ってるの!? アラサーで悪かったわね!」


 清志郎の一言に、綾音は頬を膨らませて不機嫌な表情をあらわにする。

 綾音をなだめるように、清志郎は両手を合わせて何度も頭を下げる。

 そんな二人を見守るように、隅田川は、穏やかな表情を浮かべている。


 そこには、昔から変わることのない情景があった。



 つづく

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