第14話 邂逅
★
冬晴れの青空が広がる、穏やかな昼下がり。
清志郎と綾音は、肩を並べて隅田川沿いの遊歩道を上流へ向かって歩いていた。
平日の午後二時という時間帯のせいか、人の姿はほとんどなく、東京の中心部とは思えないほど静かで、時折、上空を通る高速道路から車のクラクションが聞こえてくる。
思い出話に花を咲かせる中、清志郎は、自分の中で
清志郎は、心が穏やかになっていくのを感じた。久しぶりに訪れた、安らぎのひとときだった。
綾音は、清志郎の横顔をチラリと見ると、安堵の胸を撫で下ろす。表情がランチのときとは比べものにならないほど穏やかだったから。
もちろん、自分が話を聞いたことで清志郎の悩みが消え去ったなどと
不意に、清志郎が足を止める。
何かを探すように、辺りをキョロキョロと見回している。
「清ちゃん、どうかした?」
「あの歌、どこから聞こえてくるのかと思ってな」
「あの歌?」
清志郎の唐突な一言に綾音は首を傾げる。
「春のうららの隅田川――ってヤツだ。ほら、小学校のとき、よく歌わされただろ? 上流の方から聞こえる」
清志郎は、何かに吸い寄せられるように上流の方へと歩いていく。
清志郎が聞こえたといったのは、滝廉太郎の歌曲「花」。春の隅田川の景色を題材にした曲で小学唱歌にも指定されている。
綾音は注意深く耳を澄ました。しかし、歌らしきものは何も聞こえない。
清志郎には幻聴が聞こえているのではないか――そんな不安が脳裏を過ったが、話をしているときの表情や口調は病んでいる者のそれとは思えなかった。
★★
歌声につられて遊歩道を歩いていた清志郎は、隅田川の立入防止柵に設けられた管理用扉の前で足を止める。南京錠で施錠された扉の向こうに、声の主と思しき者を見つけたから。
細い
しかし、声を掛けるのが
その女性の風貌が普通ではなかったから。
芸子や
しかも、いくら晴れているとはいえ、二月の寒空のもと、このような薄着で外出するというのは、常識ある者の行動とは思えない。
清志郎は、女性と距離を取ってどう接するべきか思案を巡らせる。
「清ちゃん、どうしたの? 何かあった?」
遅れてやってきた綾音が、いつもの調子で清志郎に声を掛ける。
「しーっ!」
清志郎は、人差し指を自分の唇に当てる。
「そこに歌を歌っている女がいる。ただ、あの恰好だ。声を掛けていいものかどうか迷ってる」
清志郎は、声を潜めて綾音の耳元で囁くように言った。
「あの恰好?」
「見りゃわかるだろ? 温泉地にいる芸者やコンパニオンみてえだ。いや、見ようによっては、吉原の遊女にも見える」
「えっ!? 吉原の遊女!?」
「バ、バカ! 声がでけえ。聞こえちまうだろ」
清志郎の心配をよそに、おかっぱ頭の女性がこちらを振り返る。
目と眉毛の間で一直線に切り揃えられた前髪がフワリと揺れる。まつ毛の長い、切れ長の瞳が大きく見開き、小さな口が半開きになっている。
『吉原の遊女って……まさか、あたいのことかい?』
ゆっくりと立ち上がった女性は、立入防止柵越しに清志郎の顔をジッと見つめる。
振袖の肩の部分が下がり、肩から胸元にかけて透き通るような、白い肌が見え隠れする。艶やかな雰囲気が漂ってはいるが、年恰好は十七、八といったところだろう。
清志郎は、ゴクリと唾を飲み込んで女性から目を逸らした。
「ごめん! でも、違うんだ! お前のことを言ったんじゃねえ! その服装が遊女みてえに見えただけで……いや、お前が遊女と言う意味じゃなくて……おい、アヤ! お前も何とか言えよ! 元はと言えば、お前が悪いんだぞ!」
突然の出来事に、清志郎は、パニックに陥ったようにしどろもどろな言い訳をする。
「清ちゃん? さっきから誰と話してるの? もしかしたら独り芝居?」
「そんなわけねえだろ! 彼女だよ! 歌を歌ってた彼女だよ! 目の前にいるじゃねえか!」
清志郎は、女性を指差しながら綾音に対して必死に説明する。
『あんた、あたいの姿が見えるのかい? あたいの声が聞こえるのかい!?』
女性の顔に驚きの表情が浮かんでいる。
「見えるに決まってるじゃねえか。なぁ、アヤ?」
「見えるって……? 何が?」
清志郎は、狐につままれたような顔で綾音と女性の顔を交互に眺める。
話の流れから、綾音には女性の姿は見えておらず声も聞こえていない。しかし、前髪パッツンのおかっぱ頭の女性は、紛れもなく存在する。
『あんたが誰なのかはわからない。でも、あたいらは三百年以上待った。このときが来るのを』
チリンチリンという鈴の音とともに、女性が清志郎の方へ近づいて来る。
次の瞬間、清志郎は言葉を失う。女性の身体が、施錠されている管理用扉をスッとすり抜けたから。
女性は、清志郎の前に立って背伸びをするように顔を近づける。オニキスのような、漆黒の瞳に清志郎の顔が映る。
『あたいの名はシオン。あたいの頼みを聞いておくれ』
つづく
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