第8話 遭遇


 サウナのような熱気が漂う中、清志郎は、両手でロープを手繰たぐりながら慎重に上っていく。二十階が近づいたところで、松山が右手を取ってグイっと引き上げた。

 荒い呼吸をしながらあたりを見渡すと、行く手をはばんでいた炎が心なしか小さくなった気がした。


「どいういことだ? タケとキクッチがられたって」


られたところは見たわけじゃない。ただ、廊下から戻ってみたらこのあり様だ」


 清志郎の問い掛けに、松山は視線を柱の根元へ向ける。そこには、真っ黒に焼け焦げ、見る影もない消防ホースが転がっていた。


「酷えな……。このホース、まるでゴミ捨て場に捨てられたスクラップみてえじゃねえか」


「そこじゃない。その横だ」


 松山は、神妙な面持ちで黒い塊に視線を向ける。

 清志郎は、眉間にしわを寄せて、松山の視線を目で追う。

 

 不意に清志郎の目が大きく見開く。

 目に映ったものが何であるかを悟ったから。

 それらは、原形は留めていないものの、ヘルメット、酸素ボンベ、無線機、防火靴などカズワリーの商売道具――どれもある。


 自分の目が信じられなかった。いや、信じたくなかった。

 身体中がガタガタと震え、歯と歯がぶつかってカチカチと音を立てた。


 菊地から無線連絡があってすぐ、松山が上階へ引き上げられた。それから数分後に松山から異常事態を知らせる連絡が入った。菊池の声を聞いてから松山の緊急連絡を受けるまで五分も経っていない。そんな短時間で、人を消し炭に変えてしまう炎が存在することが信じられなかった。


 人の亡骸なきがらを火葬するときの火の温度は千度に近い。それでも骨をボロボロにするには二時間以上を要する。

 また、いくら無線装置に不具合が生じているからと言って、何らかの声が聞こえて然るべきだ。火に包まれて一言も発することなく絶命するというのは考えられない。


「あり得ねえ……。そんな炎が存在するわけがねえ。千度やそこらでできる芸当じゃねえぞ……。太陽の表面温度が六千度ぐらいだって聞いたことがある。少なくともそれに匹敵する熱源がこのマンションにはあるってことじゃねえか……。核兵器でも使ったっていうのかよ!?」


 清志郎の言葉から「二人の死を受け入れられない」という思いがひしひしと伝わってくる。

 しかし、これまで幾度となく死線を潜り抜け、幾人もの死を目の当たりにしてきた松山には、二人の死を否定することができなかった。


「清志郎、わしらにはまだやることがある。一刻も早く子供たちを助けよう」


 松山の顔から温厚な表情が消え失せている。

 間髪を容れず、清志郎は首を縦に振った。


「それから、もう一つ。二人がられたのは、ちょうどわしがマンションの通路の様子を見に行ったときだ。廊下に火の手はなかった。ただ、梅宮の姿はなかった。梅宮は一人で逃げ出すような奴じゃない。『られた』と考えるべきだ。竹下と菊池をったのと同じ奴に」


 ギョロリとした目が松山を睨みつける。

 清志郎も松山と同じことを考えていた。ただ、口にするのが躊躇ためらわれた。言葉にした瞬間、それを事実として認めたことになるから。


 このマンションには得体のしれないが存在する。そいつは、梅宮の命を奪い、竹下と菊池を一瞬で消滅させた。そして、息を潜めて清志郎と松山の息の根を止める機会を、虎視耽耽こしたんたんうかがっている。


「今回の炎は常識では考えられない動きをする。突然現れ、突然姿を消す。いつ、どこから襲ってくるやも知れん。消防ホースを失ったわしらは圧倒的に不利だ。すぐに子供たちを連れて二十二階へ行こう。多目的ヘリメイデンで脱出するんだ」


 松山の顔が強張っているように見えた。

 階下に目をやると、相変わらず溶岩流のような炎が渦巻き、真っ白な蒸気が噴き出している。いつ床が崩れ落ちてもおかしくない状況だった。


「わかった。俺が子供たちのところへ行く。そのためにはこの炎の壁を突破する必要がある……。松さん、特殊消火剤サイレントダウナーをありったけぶち込んでくれ」


「子供たちまでの距離が近い。消火剤を吸い込む可能性がある。そうなれば、小さな子供にはダメージが大きい」


 心配そうな顔をする松山に、清志郎は自分の酸素マスクを指差す。


特殊消火剤サイレントダウナーが松さんの手を離れた瞬間、俺が炎の中へ突っ込む。子供の身柄を確保したら、すぐに俺の酸素マスクを使わせる。それならどうだ? いい考えだろ?」


「無茶を絵に描いたような男だ」


 松山は、苦笑いを浮かべて首を左右に振る。しかし、ダメ出しはなかった。「子供たちを救う方法はそれ以外にない」。松山もそう思っていたから。


「清志郎、こいつを使え。一つじゃ足りないだろ?」


 松山は、自分の酸素マスクを外して清志郎に手渡す。


★★


「おーい! 聞こえるか!?」


 清志郎の問い掛けに「はい」と言う小さな声――姉妹の姉の声が聞こえた。


「今から白い煙が上がる! でも、心配はいらねえ! 俺がすぐにそっちへ行ってお前たちを助ける!」


 清志郎が向けた視線が何かの合図であるかのように、松山の手から二つの特殊消火剤サイレントダウナーが放たれた。白い霧と真っ赤な炎が入り混じった空間に、清志郎が雄叫びを上げながら突っ込んでいく。


 炎の壁を抜けた清志郎の目に、二人の女の子の姿が映った。

 小学生の姉が妹の身体をしっかりと抱きしめている。姉の真剣な眼差しから「自分が妹を守る」といった気概が感じられる。

 清志郎は持っていた酸素マスクをすばやく妹の口に当てると、自分のマスクを姉へ手渡した。


「お姉ちゃん、よくがんばったな」


 清志郎の笑顔に触れた瞬間、姉の顔が泣き顔へ変わる。張り詰めていたものが緩んだのだろう。そんな姉の身体を、清志郎はしっかりと抱き締めた。耳元で「大丈夫」という言葉を何度もささやいた。


「松さん、二人の身柄を確保した! 二人とも無事だ! もう二、三発ぶち込んでくれ! 三人でそっちへ行く!」


「わかった。でも、無茶はダメだ。慎重に行動しろ。一人じゃないんだからな」


「わかってるって」


 松山の言葉に二つ返事で答えると、清志郎は姉に穏やかな視線を向ける。


「お姉ちゃん、火が消えたらおじさんといっしょに走るんだ。できるよな?」


「うん。できる。私、足が速いの。でも、妹が……」


「大丈夫。妹のことはおじさんに任せろ。お姉ちゃんは炎の向こうに全力で走ることだけを考えるんだ」


 笑顔の清志郎に、姉は真剣な表情かおで力強く頷く。


「よし。決まりだ。松さん、よろしく頼む!」


 松山が炎の中に二つの特殊消火剤サイレントダウナーを投げ込んだ。白い霧が立ち上り、炎の勢いが少しずつ衰えていく。

 清志郎の目に、煙の向こうで手招きをする松山の姿が映った。妹を脇に抱えて姉の手を引くと、清志郎は松山の方へ足を踏み出す――その瞬間、清志郎の背中に冷たいものが走った。


「松さん! 後ろだ! 後ろを見ろ!」


 悲鳴にも似た声があたりに響き渡った。

 振り向いた松山の目に映ったのは、どす黒く燃え上がる炎。それは、玄関から敷かれた導火線を伝うように、少しずつ、そして、確実に松山の方へと向かっている。床と壁をドロドロに溶かしながら。

 松山は、必死の形相で、特殊消火剤サイレントダウナーを炎目掛けて投げつけた。

 白い霧が炎を包み込む。しかし、炎の勢いは、収まるどころか、さらに増したように見えた。周囲の景色が陽炎かげろうのようにゆらゆらと揺れている。


「松さん、今、行く!」


「――来るな! こいつはただの火じゃない! お前にどうこうできる代物じゃない!」


 松山は、清志郎の動きを制するように右手を背中に回す。


 確かにではなかった。

 床を這うように音もなく近づいてきたは、松山の手前で動きを止めると、天井に向かって垂直に立ち上った。

 全長が十メートル以上ある大蛇が鎌首をもたげて獲物を狙っているようだった。大蛇の顔にあたる部分では、二つの赤い炎が怪しい眼光を放ち、全身から撒き散らされる火の粉は、邪悪で禍々まがまがしいオーラをまとっている。

 松山は「蛇に睨まれた蛙」のごとく身動き一つせず、荒い呼吸をしながらその場に立ち尽くした。


「何やってる!? こっちへ来い! 早くしろ!」


 声を枯らして必死に叫ぶ清志郎を尻目に、炎の大蛇が松山目掛けて襲い掛かる。

 清志郎の視界から松山の姿が消えた。同時に、真っ黒になったヘルメットがスローモーションのように床に落ちていく。

 瞬きをする間もない、文字どおり、一瞬の出来事だった。


 姉妹の身体が震えている。

 ただ、震えているのは姉妹だけではなかった。

 二人を抱きかかえる清志郎も、全身を小刻みに震わせていた。



 つづく

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