第7話 死闘


「松さん!」


 清志郎は、左手をいっぱいに伸ばして、落下する松山の左手首を掴み取った――が、次の瞬間、今度は清志郎の足元が崩れ落ちる。

 必死に支柱の方へ右手を伸ばすと、清志郎は、き出しになって「へ」の字に曲がった鉄筋を力強く握りしめた。何とか落下は免れたものの、二人は、十九階と二十階の間で宙吊りの状態となった。

 不快な轟音と熱風にさらされる中、清志郎は荒い呼吸を整えながら眼下に目をやる。マンションの躯体がドロドロに融けて、遠浅の海岸のようになっていた。表面からボコボコという音を立てて白い蒸気が沸き上がり、時折、火柱が立ち上る。落ちればひとたまりもないことは、火を見るより明らかだった。

 

「炎でマンションが焼かれてやがる……ありえねえ……」


 清志郎はゴクリと唾を飲み込んだ。目の前に広がる、非現実的とも言える光景に、悪い夢でも見ているのではないかと思った。


「清志郎! 松さん! 大丈夫か!? 菊池と俺は無事だ! 今助ける!」


 不意に、上階から、竹下の大きな声が聞こえた。宙吊りになった清志郎たちの救出に向かおうとしている。


「タケ、子供が先だ! 今なら進入路が確保されてる! 火の手が回る前に二人を助け出せ! 早くしろ!」


 竹下の声がする方向へ鋭い視線を向けると、清志郎は大声で捲し立てた。

 立ち上る蒸気の向こうに、ホースを手にする、二つのシルエットがぼんやりと浮かんでいる。


「清さん、そんな状態じゃあ長くはもたないよ! こんなところで二人を失うわけにはいかない! 竹下さん、僕がロープで二人を引きあげます! ホースを頼みます!」


 無線を通して、菊地の涙混じりの声が聞こえた。それが何かの合図であるかのように、シルエットが二つに分かれる。


「ダメだ! 二十階が崩れるのは時間の問題だ! 子供の救助を優先しろ! 場合によっては、お前たちだけで二十二階へ行くんだ! これは命令だ! 隊長命令だ!」


「――清志郎、頼みがある」


 不意に、穏やかな声が聞こえた。

 清志郎が声のする方向――自分の左手へ視線を向けると、そこには、いつもの柔和な表情を浮かべる松山の姿があった。


「左手を……わしの左手を放してくれないか?」


 清志郎の目が大きく見開いた。全身の毛穴という毛穴が開いて汗が噴き出すような感覚を覚えた。


「このままではカズワリーは全滅する。わしの長年の経験がそう言っている。そんな事態を避けるのが指揮官の役目だ。お願いだ。手を放してくれ」


 松山の表情や口調は普段と何も変わらない。飲みに行って他愛もない会話を交わしているときのそれと同じだった。しかし、その目は真剣そのものだった。自ら手を振り解くことも辞さない気概が感じられた。


「松さん、わかった。手を放す」


 少し間が開いて、清志郎がポツリと呟いた。


「ただ、放すのは左手じゃねぇ。右手の方だ」


「な、何を馬鹿なことを言っている!」


 動揺した様子で、松山が声を荒らげる。


「俺は本気だ。もし松さんが手を放そうとしたら、俺は躊躇ためらうことなく右手を放す。だって、そうだろ? 俺は隊長だ。部下の命を犠牲にして隊長が助かるなんて道理はあり得ねえ」

 

 対照的に、清志郎の口調は穏やかだった。


「冷静になれ! お前を失ったらカズワリーは機能しない! お前はカズワリーにとって無くてはならない――」


「――訳のわからねえこと言ってんじゃねえ!」


 怒号のような声が松山の言葉をさえぎった。


「そんな減らず口を叩く暇があったらカズワリーのモットーを言ってみろ! 全員で帰らねえと意味がねえんだ! 絶対に全員で帰ってやる! 今度同じことを言ってみろ! 俺はあんたを許さねえ! 死んだって許さねえからな!」


 清志郎は、肩を震わせながら、凄まじい形相で松山をにらみつけた。

 松山は唇をグッと噛むとうつむき加減に視線を逸らす。


「すまん……」 


 松山の消え入りそうな声が聞こえた。

 清志郎は松山の左手首をがっちりと握る。すると、それに応えるように、松山の手が清志郎の左手首を握り返した。


「松さん、清志郎の言うとおりだぜ。カッコつけて死んでどうする? 松さんの命、重過ぎて俺たちには背負いきれないぜ」


 二人の会話に割り込むように竹下の声が聞こえた。一部始終を無線で聞いていたようだ。


「清志郎、子供を助ければいいんだろ? そんなの俺一人で十分だ。今キクッチが二本のロープを柱に縛り付けた。ロープを下してお前たちを引きあげる。あいつの怪力の見せどころだ。その間に、俺が子供たちを助ける。お前が上がって来る頃にはすべて終わらせておく。後は、七人揃ってメイデンで脱出するだけだ。それで文句はないだろ? 命知らずの指揮官さんよ」


 竹下の言葉を聞いた瞬間、清志郎の顔に笑みが浮かぶ。松山が小さく会釈をする。


「清さん! 松山さん! これからロープを下ろします。ロープは二本下ろすけど引きあげるのは一人ずつです。まずは松山さん。それから清さんです。清さん、僕が合図するまでくたばらないでね!」


 菊池の声とともに、清志郎と松山の目の前に二本のロープが下りてくる。一本を松山がつかんだ瞬間、身体がスルスルと引き上げられていく。流石は怪力自慢の菊池だ。普段は単なるアニメヲタクだが、現場では別人と化す。


 垂れ下がったロープを両手でつかんで清志郎は息を整える。口にこそ出さなかったが、左手の握力はほとんど残っていなかった。あと少し遅ければ、もたなかったかもしれない。

 清志郎は、肩で息をしながら、階下で荒れ狂う炎の様子をまじまじと見つめた。


★★


 松山が引きあげられて三分が経ったが、菊池からは何の連絡もない。

 距離は数メートルしか離れていないが、立ち上る蒸気のせいで上階の様子はよくわからない。


「キクッチ、どうした? 何かあったのか?」


 しびれを切らした清志郎が無線で連絡をとる。しかし、聞こえるのは、ザーッという雑音ノイズだけ。


「また不具合かよ。だからこんな骨董品は早く買い換えろって言ってるんだ。帰ったらすぐ交換させるからな」


 ヤレヤレといった表情を浮かべると、清志郎はロープを伝って自力で上り始める――と、そのときだった。


「清志郎! すぐに来てくれ!」


 上階から松山の声が聞こえた。無線ではなく肉声。いつも冷静沈着な松山が声を荒らげている。


「――竹下と菊地がられた!」



 つづく

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