第6話 二〇〇四号室


「松さん、『神の右手』の出番だ」


 清志郎の言葉に、松山は右手の手袋を外して非常扉の表面に手を添えた。熱の伝わり具合から扉の向こう側の状況を確認するためだ。

 温度計の表示は四十度を超え「バックドラフト」が起きてもおかしくない状況だった。

 密閉された空間で火災が発生すると、最初のうち火は勢いよく燃えているが、空気が少なくなると不完全燃焼が生じ勢いが衰える。しかし、火は消えたわけではなく外部から新鮮な空気が流れ込むと再び勢いを取り戻す。そのとき、室内に充満した可燃性ガスに火が燃え移り大爆発が起きる現象をバックドラフトと呼び、それが原因で殉職した消防士も少なくない。


「扉の温度は上がっていない。空気の流れも正常。大丈夫だ」


 松山は、いつもの柔和な表情で扉の表面からスッと手を放す。


「みんな、念のために扉から離れてくれ」


 清志郎は、緊張した面持ちで扉の取っ手に左手を掛けると、グイっと手前に引き寄せた。

 真っ直ぐに伸びる、マンションの廊下が目に映る。火の手は及んでいないが、微かに白い煙が流れている。


「タケ、キクッチ、消火栓が生きてるかどうか確認してくれ。生きてれば、放水で援護を頼む」


 菊池が避難階段の脇にある、赤いボックスを開けてバルブを捻る。振動とともに平べったいホースが膨らみノズルから勢いよく水が噴き出す。


「清さん、消火栓は生きてるよ」


「了解。助かった」


 清志郎は、菊池に向かって軽く手を上げる。その顔には安堵の表情が浮かぶ。

 五人は、静まり返った廊下を慎重に進む。そして、「2004」と書かれた扉の前で足を止める。


 松山が右手の手袋を外して扉に手を添える。眉間にしわが寄り、表情がにわかに険しくなる。半信半疑といった様子に、清志郎の額から一筋の汗が流れ落ちた。


 不意に、どこからか子供が泣くような声が聞こえた。

 清志郎と松山は、顔を見合わせて小さく頷く。


「おーい! 誰かいるのか? いたら返事をしてくれ! 俺たちは消防隊だ! 助けに来たんだ!」


 清志郎は、フロア全体に聞こえるような大きな声で叫ぶと、左耳を扉の表面に当てて聞き耳を立てる。


「助けて! 火がそこまで来てるの! 早く来て!」


 女の子のものと思われる声が、はっきりと聞こえた。

 清志郎の両目が見開き、鋭い眼光が宿る。


「子供が危ねえ! 突入するぞ! 松さん、扉をバールでこじ開けろ! タケとキクッチは放水の準備だ! チェーンロックがかかっていたらウォーターカッターでぶった切れ! 梅宮はサポート班に突入の連絡だ!」


 松山がバールでカギを破壊するや否や、清志郎が扉を押し開ける。すると、部屋の中から火災現場特有の熱風が噴き出した。


「くそったれ! 中と外は大違いじゃねえか!」


 清志郎の怒りを帯びた声があたりに響き渡る。

 玄関からリビングに続く、長い廊下は火の海と化し、五メートル以上ある、高い天井まで炎が立ち上っている。

 目を凝らすと、燃え盛る炎の向こうに二つの人影が見えた。しかし、扉に掛けられた、防犯用のチェーンロックがカズワリーの行く手を阻んでいる。


「ウォーターカッターだ! 急げ!」


 菊池がホースの先にすばやくカッターパーツをセットする。竹下が水流のバルブをひねると、刃と化した、高圧の水流が金属製のチェーンを浸食していく。すぐにチェーンロックは切断され、鎖がダラリと垂れ下がった。

 カッターパーツを取り外した竹下が放水を開始する。水流が炎を蹴散けちらしていく。


 清志郎の目に二人の子供が抱き合う姿が映った――が、それは一瞬だった。

 勢いを取り戻した炎が高い壁となって五人の前に立ちはだかる。子供たちがいる、リビングの端までは、まだかなりの距離がある。


「このままじゃらちが明かねえ! 松さん、特殊消火剤サイレントダウナーをぶち込んでくれ! 子供たちのところまでは十メートル以上ある! 危険はねえだろ!?」


 松山は、即座に「問題ない」と告げると、二つの特殊消火剤サイレントダウナーを燃え盛る炎へ投げつけた。我が物顔で席巻していた炎の勢いが衰えていく。


「タケ、とどめだ!」


「言われなくても、ってやるっての!」


 竹下の声とともに力強い水流が炎を包み込んだ。カズワリーと子供たちを隔てる炎に隙間が生じる。

 清志郎の目に、二人の女の子の姿がはっきりと映った。


「もう大丈夫だ! 火は消えたも同然だ! すぐに助けにいく! もう少しの辛抱だ!」


 努めて笑顔を見せる清志郎に、姉妹の姉と思われる女の子が緊張した面持ちで頷く。


「タケ! キクッチ! 子供たちの前に放水を集中しろ! 進入路を確保してくれ! それから、梅宮! 廊下の様子を見て来い! 火が迫っていたら連絡しろ! 特殊消火剤サイレントダウナーで俺たちの退路を確保しろ!」


 火は消えたも同然――子供たちを安心させるためにそう言った清志郎だったが、状況が劣性であることに変わりはなかった。同時に、妙な胸騒ぎがしてならなかった。

 二十階の避難階段や廊下には、火の手は及んでいなかった。にもかかわらず、二〇〇四号室は火の海と化していた。

 状況を見る限り、この部屋が出火元とは思えない。そうであれば、どこからか火が侵入してきたことになる。

 ベランダの戸を開けて入ってきたのか? 床からボコボコと湧いてきたのか? それとも、天井から忍者のようにスルスルと降りて来たのか? どれも常識では考えられない。

 ただ、今はそんな妄想を巡らしているときではない。燃え盛る炎にさらされた子供たちを救助するのが最優先事項。すでに十九階に火が回っていることを考えれば、この部屋も長くはもたない。


 突破口を開こうと、竹下と菊池が放水を一箇所に集中する。

 すると、人一人が通れるぐらいの隙間が確保された。


「よし! そのまま放水を固定しろ! 俺が子供たちのところへ行く! 俺が戻るまでそのままだぞ! 黒焦げは勘弁してくれよ!」


 清志郎は、乾いた唇にペロリと舌を這わせると、梅宮のいる、マンションの廊下の方へ視線を向ける。


「梅宮、そっちの様子はどうだ? 退路の確保は大丈夫か? 梅宮……? おい、梅宮……! 畜生、こんなときに無線の不具合かよ。松さん、廊下にいる梅宮の様子を見てきてくれ」


「わかった」


 清志郎が子供たちのいるリビングの方へ、松山が梅宮のいる廊下の方へ、それぞれ足を踏み出したとき、何の前ぶれもなくは起きた。


 突然、フローリングの床が真っ赤に変色し水面のように波打つ。バランスを崩した清志郎と松山はその場に倒れ込んだ。

 次の瞬間、「清志郎」と「子供たち」の間、「松山」と「竹下・菊池」の間に、それぞれウォーターカッターで切られたような亀裂が走り、炎が噴水のように噴き出してきた。


 カズワリーは、二人ずつに分断される――が、それだけでは終わらなかった。

 清志郎と松山の間にも亀裂が走り、同じように炎が噴き出す。

 吹き飛ばされた清志郎はマンションの支柱に叩きつけられ、松山の足元が崩れ落ちる。

 階下の様子を垣間見た松山は、自分の目を疑った。

 十九階は炎で焼かれ、ドロドロに融けた何かが生き物のようにうごめいていた。まるで火山が噴火したときの溶岩流のように。

 四十年近く消防現場に身を置き、百戦錬磨の経験を積んできた松山だったが、初めて目にする、おぞましい光景に心の底から恐怖した。



 つづく

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