第51話 シオンの願い


 真っ暗な空間に、二つの青い光がまたたいている。そのうちの一つが、うれしそうに輝いているように見える。


「ミヅハノメ、あたいらが出会った頃のこと、憶えてるかい?」


「シオンと初めて言葉を交わしたのは一六八三年です。大丈夫です。こう見えて、わたし、物覚えは良い方なんですよ」


 シオンの唐突な質問に、ミヅハノメは自信満々に答える。


「あのとき、あんたは『火の神・ヒノカグツチの暴走を止めて欲しい』と言った。そして、その報酬として『願いを一つ叶える』と言った。憶えてるかい?」


「憶えていますとも。そんな大事なことを忘れるわけがありません。あのとき、わたしは、あなたの願いをのですからね」


「そうだったね」


 シオンは、フフッと小さく笑う。


「あたいの願いは、仲間の命を助けること。却下された理由は、ヒノカグツチの野望を打ち砕いたら、あたいの願いが叶っちまうから。そうだったね?」


「そのとおりです。わたしは、あなたに他に願いがないか確認しました。しかし、あなたは、『仲間の命が助かるなら他に願うことはない』の一点張りでした」


「うん。そうだった」


 二人の間に沈黙が訪れる。

 青い光の一つが、明るくなったり暗くなったり不規則な輝きを放つ。まるで重大な決断を迷っているかのようだった。

 沈黙を破ったのは、シオンの意外な一言だった。


「まだ間に合うかい? かなり時間が経っちまったが、受け付けてもらえるかい?」


「大丈夫です。ヒノカグツチとの決戦は明日の夜です。後出しジャンケンにはなりません」


 シオンの躊躇ためらいがちな申し出をミヅハノメは二つ返事で了承する。


「それに、ニンジンをぶら下げておいた方があなたの士気も高まりますからね。わたしにとっては願ったり叶ったりですよ」


「あたいは競争馬かい?」


 ミヅハノメが冗談っぽく言うと、シオンは苦笑いを浮かべる。


「ただ、当時も言いましたが、突拍子もないことは受け付けられません。とは言いながら、仲間の神の力を借りれば、ほとんどのことは叶えられます」


「じゃあ、お言葉に甘えてお願いするよ」


 シオンは、少し恥ずかしそうに自分の願いを話し始めた。


★★


「清ちゃん、お天気がいいから屋上で食べない? ナースステーションには私が断っておくから」


 綾音の提案に、清志郎は小さく頷く。しかし、心はうわの空だった。


 シオンは、二十二歳の若さでこの世を去った。明暦の大火から四年が経ち、江戸の町の復興が形になった頃だった。

 シオンは、四年間、歌い続けた。ケガを負った人や大切なものを失った人に勇気と希望を与え、江戸の町に活気を取り戻すため、昼夜を問わず歌い続けた。

 シオンの性格を考えれば、無茶をした可能性が高い。死因は過労によるものだろう。


『お前……それでよかったのかよ?』


 清志郎は、悲しそうな眼差しでシオンに問い掛ける。

 シオンは、目的を成し遂げた。仲間の命を救い、自らの汚名を晴らし、江戸の町を復興させた。それは、まさにシオンが望んだことに他ならない。ただ、清志郎は、納得がいかなかった。

 他者の追随を許さない、卓越した歌唱力と音感がありながら、それを鼻に掛けることなく誰からも愛される存在だったシオン。それゆえ、数奇な運命に翻弄ほんろうされ人一倍悲しみと苦しみを背負うこととなった。

 清志郎は、そんなシオンに人一倍長く幸せな余生を送ってもらいたかった。


「暖かくて良かった。私たちの心掛けの賜物たまものだね」


 エレベーターを降りて屋上へ出ると、車椅子を押す綾音が笑顔で話し掛ける。 

 時刻は午後三時を回ったところ。暖かな陽射しが降り注ぎ、新宿特有のビル風もなりを潜めている。二月初旬とは思えない、穏やかな陽気だった。


 綾音は、副都心が一望できるベンチの脇に車椅子を固定し、清志郎と並ぶように腰を下ろす。二人は、あんパンと紅茶でティータイムを始めた。

 最初は浮かない顔をしていた清志郎だったが、自分のことを気遣ってくれる綾音の前でそんな態度を取るべきではないと自分に言い聞かせる。


「清ちゃん……ちょっといい?」


 不意に、綾音の口からポツリと言葉が漏れる。飲み掛けの紅茶のカップをベンチの上に置いて、足元に視線を落としている。


「どうした?」


 笑顔で尋ねる清志郎に、綾音は、うつむいたまま左右の髪を耳に掛ける仕草をする。


「おかしな話をするけれど、笑わないでね」


「ああ。笑ったりしねえよ」


 綾音はゆっくりと顔を上げる。どこか緊張した様子が感じられる。


「私ね……シオンに会ったことがある気がするの」


 綾音が躊躇ためらいがちに発した一言に、清志郎の顔に驚きの表情が浮かぶ。しかし、すぐにそれは、穏やかな笑みへと変わった。


「興味深え話だ。アヤ、続けてくれ」


 清志郎の反応が想定外だったのか、綾音はホッとした表情を浮かべる。


「もしかしたら夢だったのかもしれない。でも、断片的な記憶が残っているの。シオンは昔から隅田川のほとりにいて、私たちを見守っていた……。憶えてる? 小学生のとき、いじめっ子が私のボールペンを川の中に投げ込んだときのこと。あのときもシオンが助けてくれた気がするの。

 それから、シオンは私を守ってくれたの。私だけじゃない。清ちゃんのことも守ってくれたんだよ……清ちゃん? どうしたの? 気分でも悪いの?」


 視線を足元に落として身体を震わせる清志郎に、綾音が心配そうに声を掛ける。

 こみ上げてくるものを必死におさえながら、清志郎は、ゆっくりと顔を上げた。


「そうだよな。シオンは、江戸を復興させた、伝説の歌姫だ。時空を超えて俺たちを助けてくれたっておかしくねえ。それに、シオンの歌は聞く者を幸せにしたそうじゃねえか? シオンのおかげで、俺もアヤもこうして幸せでいられるのかもしれねえぞ」


「清ちゃん、ありがとう! こんな突拍子もない話、信じてもらえないかと思ったよ。すごくうれしい。TOKYOトウキョウ DIVAディーバもがんばれそうだよ」


 目を潤ませながら話す清志郎の姿に、綾音は感銘を受ける。

 そんな綾音の姿を見て、清志郎もまた感銘を受けた。


『アヤ、ありがとな。あいつのこと、憶えていてくれて――シオン、俺たちは、絶対にお前のことを忘れたりしねえ。お前と過ごした日々のことは一生大切にする』


 清志郎は、空を見上げると、シオンに話し掛けるように心の中で呟いた。暖かな陽射しがとても心地良く感じられた。


★★★


「お~い! お兄さ~ん!」


 不意に背中から女の子の声が聞こえた。

 自動ドアのところで赤いランドセルを背負った女の子が手を振っている。


「よお、里奈。わざわざ来てくれたのか?」


「わざわざでもないよ。お兄さんの病院が通学路の途中にあるんだよ」


 里奈が清志郎のところへ足早に走り寄る。どこかホッとしたような表情を浮かべている。


「お兄さんが病室にいないからびっくりしちやった。看護婦さんから屋上だって聞いて急いで飛んできたんだから――あっ、綾音さん、こんにちは」


「里奈ちゃん、こんにちは」


 屈託のない、明るい笑顔を浮かべる里奈に、綾音も笑顔で返す。

 里奈は、清志郎が火災現場で救助した姉妹の姉で小学五年生。火災があった日の翌日、母と妹の春香と三人でお礼を兼ねたお見舞いに訪れたのを皮切りに、何回か清志郎の病室を訪れていた。


「今日はお母さんと春香はいっしょじゃねえのか? 新宿は変なヤツが多いから一人でこんなところに来ちゃ危ねえぞ――アヤ、後で里奈を送ってやってくれ」


 心配そうに尋ねる清志郎に、里奈は首を横に振る。


「大丈夫だよ。今日も三人で来ているから。春香は、ひびきちゃんといっしょにトイレへ行ってるの。もうすぐ来るよ」


「響ちゃん? 里奈の友達か? いくら病院のトイレだって子供二人じゃ危ねえぞ。変なヤツが潜んでいるかもしれねえ――おい、アヤ、様子を見に行ってやれ」


「わかった。行ってくるよ。清ちゃんの病室がある十二階のトイレでいいのかな?」


 綾音が確認をしたとき、里奈の視線が自動ドアの方へ向く。


「あっ、来た! お~い! 春香~! 響ちゃ~ん!」


 大きく手を振る里奈の方へ、妹の春香が飛び跳ねるように走ってくる。そして、春香の後ろからセーラ服を着た女子が小走りで続く。

 茶色のコートを手に持った、背の高い、細身の女子。走るたびにサラサラの長い黒髪が風になびく。ただ、その端正な顔立ちからは、冷たい雰囲気が漂っている。


「響ちゃんは、高校二年で私の従姉なの。今日はお母さんが用事で来れないから、代わりに来てもらったんだ――ねっ、響ちゃん」


「はじめまして。藤崎ふじさき ひびきと申します。この度は、里奈と春香の命を救っていただき誠にありがとうございました。また、そのようなお怪我をさせてしまって大変申し訳ありません。二人はわたしにとって妹のようなものです。心から感謝するとともに、深くお詫び申し上げます」


 藤崎響は、車椅子に座る清志郎に向かって深々と頭を下げると、丁寧過ぎる口調で挨拶をした。感情の欠片も感じられない、無表情で無機質な挨拶を。



 つづく

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