第2話 ミヅハノメとヒノカグツチ


「シオン……」


 漆黒の闇の中、女性のものと思しき声が聞こえる。


「シオン、起きてください……」


 微かに青い輝きを放つ、小さな光。声はそこから聞こえてくる。


「シオン、あなたの力が必要なのです……」


 きずが付いたCDのように、同じ問い掛けが繰り返される。

 しかし、それに答える者は誰もいない。


「お願いです。どうか私の話を聞いて――」


「――話しかけないでおくれ。このまま眠らせておいておくれ」


 何度目かの問い掛けを、別の声がさえぎる。

 その声は、灰色の光から発せられている。


「シオン、あなたには、江戸の町を、いえ、この世界を救って欲しいのです」


「世界を救う……? あたいには誰も救うことなんかできやしない。と同じさ」


 生気が感じられない、無機質な声は、その光同様、いつ消えてもおかしくない。


「あなたに救ってもらいたいのは、すべての生命いのちです。ただ、そのことはあなたとあなたの仲間を救うことにもなるのです」


「あたいを救うだって? それは無理だ。あたいはもう死んじまったんだ。救うことなんてできやしない。それに……あたいには、仲間なんかいやしないよ」


「シオン、あなたは『明暦の大火』で命を落としました。ただ、魂はまだこの世とあの世の境を彷徨さまよっています。それは、やり残したことがあるからではありませんか? 無実の罪を晴らしたいと思っているからではありませんか?」


「どうして、そのことを……? あんたは一体……?」


 消え入りそうな声が、突如、感情を帯びたものへと変わった。


「わたしの名前は『水波能女神ミヅハノメ』。水を司る神です。シオン、あなたには、これから起こるであろう、火の暴走を止めてもらいたいのです」


★★


「――また見たんだ、あの夢。いつからだっけ? 清ちゃんがあの夢を見るようになったの」


 綾音は、カプチーノのカップを両手で抱えながら、正面に座る清志郎の顔を上目遣いに眺める。


「ちょうど俺がカズワリーへ出向した頃だから、かれこれ二年近く前だ」


 ひげを蓄えた口にアイスティーのストローを咥えて、清志郎は淡々と応える。


「夢の内容はこれまでと同じ? 何とかっていう神様とシオンとかいう女性が出てきたの?」


「ああ、いつもと同じだ。女が二人、話をしてる。声は聞こえるが姿は見えねえ」


「前にも聞いたけれど、夢の場所や人物に心当たりはないの? 以前行ったことがある場所だとか、似たような人が知り合いにいるとか……。もしかしたら、虫の知らせかもしれないし……。最近、何か変わったことはない?」


 綾音は、肩まで伸びた髪を肩口に流すように両耳に掛けると、目尻の下がった大きな目で清志郎の顔をジッと見つめた。


「心当たりもねえし、おかしなことが起きた形跡もねえ。まぁ、カズワリーへ出向してからは毎日が戦争だったからな。夢のことを考えている余裕なんてなかったってのが正直なところだ」


「そうだった、そうだった。清ちゃんとこんな風にお茶することもほとんどなかったし。でも、それって、自業自得だよ。いばらの道を選んだのは、誰でもなく清ちゃん自身なんだからね」


 綾音は、自分の右手をピストルに見立てて清志郎を撃つような仕草をする。


「それで? 今回の夢は何か進展があったの?」


「話の流れはよくわからねえ。ただ、二人の会話がはっきり聞き取れた」


「すごいじゃない! 会話が聞こえたのって初めてだよね? どんな話だったの?」


 綾音は、大きな目をさらに大きくして興味津々といった様子で清志郎の方へ身を乗り出す。

 清志郎は、小さく息を吐き出すと、持っていたグラスを静かにテーブルの上に置いた。


が起きるみてえだ」


「とんでもないこと?」


「ああ、とんでもねえことだ」


 清志郎は、口髭くちひげを撫でながら夢の内容を思い出すように静かに話し始めた。


★★★


「――火の暴走を止めるだって? そんなことできるわけないじゃないか。あたいはただの芸子だよ?」


 ミヅハノメの言葉に、間髪を容れず、シオンが反論する。


「そんなことはありません。あなたにしかできないことです。いえ、すべきことなのです。江戸一番の歌姫であり、明暦の大火で多くの仲間を失ったあなたが」


 シオンの脳裏にの自分の姿がよぎる。必死に助けを求める仲間に対して、何もしてやれなかった自分の姿が。


「死んだ後も、あのたちには何度も言葉を掛けた。でも、返って来たのはどす黒い憎悪と敵意だけ……。悲しみで心が押しつぶされそうだった」


 シオンの口から憂いを帯びた言葉が漏れる。

 漆黒の闇が再び深い静寂に包まれる。


「でもね、あのたちが、あたいにとって大切な存在であることに変わりはないよ」


 沈黙を破るように、シオンはポツリと呟く。短い言葉ではあったが、自分の胸の内を吐露したものだった。


「あたいの歌が誰かを救えるのかい?」


「はい。あなたが歌うことで、仲間はもちろん、たくさんの人が救われます」


「もしそうなら、あたいは喜んで歌うよ。あたいは、歌ってなんぼの歌姫だからね」


 シオンの前向きな言葉に、ミヅハノメは安堵あんどの胸を撫で下ろす。


「ありがとう。心から感謝します。あなたの歌とわたしの水の力があれば、すべての生命いのちを救うことができるかもしれません……いえ、必ず救ってみせます」


 力のこもった言葉がミヅハノメの口をく。


「その前に一つ教えておくれ。あたいが死んでからどれぐらいの時間が経った?」


「今は一六八三年です。明歴の大火から二十六年が経ちました」


「生きていれば、四十四歳。でも、死んじまったから、いつまでも十八歳か……。うれしいんだか、悲しいんだか」


 お道化たように答えるシオンだったが、その言葉にはどこか寂しさが漂う。


「これから江戸の町に何が起きるんだい?」


「はい。江戸はもちろん、この世のすべてが焼き尽くされます」


「なんだって!?」


 ミヅハノメの言葉に、シオンの口から驚きの声が発せられる。


「火の神・火之迦具土神ヒノカグツチは、世界を無に帰そうとしています。これまで水と火は互いにけん制しながら存在してきました。言い換えれば、力の均衡が保たれた状態が続いていました。しかし、その均衡が崩れようとしています。

 ヒノカグツチは、、あなたの仲間が抱いた憎悪をきつけ、彼女たちの魂を火種としたを作り上げました。それは、江戸の町で日々発せられる、怒りや悲しみといった、負の感情を吸収し火種を増幅させるものです。

 このままでは、時間が経つにつれ火の力は強大になっていきます。そして、いつか水の力を凌駕りょうがするでしょう。それは、世界の終焉を意味します」


 シオンは、激しい動揺を覚えていた。

 江戸の街に大きなわざわいが迫っている。それは、すべての人が死に絶えるような、未曽有の大惨事。そして、その元凶を作り出したのは、誰でもなくシオン自身だった。



 つづく

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