第1部 消防庁特別消防部隊 Firefighting Team "Cassowary Flight"
第1話 渡清志郎の思い
「えっ……? 清ちゃん、『カズワリー』へ行くの? 組織の立上げまでが災害対策官のお仕事じゃなかったの?」
飲んでいたカプチーノのカップをテーブルの上に置くと、
「アヤ、そんなに驚くことじゃねえだろ? 中央官庁の役人が現場組織に出向するなんて今に始まったことじゃねえ。税務署や警察署はもちろん、県や市にだって行ってる。俺が消防の現場組織へ行くのもおかしいことじゃねえよ」
「それって、エアコンが効いた部屋で、革張りの椅子に座ってハンコをつくだけのお仕事じゃないよね? 現場に行って火の中へ飛び込んだりするんだよね? 危険と隣り合わせのお仕事だよね?」
綾音は、肩まで伸びた髪を左右の耳に掛けながら、清志郎の方へグイッと身を乗り出す。その声は微かに震えている。
「当たり前だろ? 隊長として出向するんだから現場に行かなかったら給料泥棒だぜ。それに、ハンコを押すだけの仕事だったら行かねえよ。もともと俺が志願したんだし」
「そうなの!? どうして? 自分が立ち上げた組織が気になるから? だったら、毎日誰かに状況を報告してもらえば済むことじゃない?」
綾音は思わず声を荒らげた。「納得がいかない」という様子が伝わってくる。
「お祖父様とお父様のこと、忘れたわけじゃないよね?」
綾音の大きな瞳が悲しげに揺れている。
清志郎は、左手で
会話が途切れたことで、店内に流れている、静かなBGMがはっきりと聞き取れた。
「忘れるわけねえだろ」
清志郎の口からポツリと言葉が漏れる。すると、それが何かの合図であるかのように綾音の思いが一気に噴き出した。
「じゃあ、どうしてなの? 清ちゃんのお祖父様もお父様も殉職されたんだよ? それに、お母様が入院されているのもお父様のことが原因なんだよ? 二人とも優秀な消防士だった。でも、火災に巻き込まれた。私、清ちゃんにはそんな目に遭って欲しくないの!」
綾音は、訴えかけるような眼差しで清志郎の顔をジッと見つめる。
「清ちゃんが国家Ⅰ種に受かって消防庁に入ったとき、正直ホッとした。これで火災現場へ行くことはないって思ったから……。お祖父様やお父様のお仕事を否定しているように聞こえるかもしれないけれど、清ちゃんには自分の命を犠牲にして誰かを助けるようなことはして欲しくないの。差し出がましいことを言っているのはわかってる。わかってるけれど、言わずにはいられないの。だって、ずっといっしょに……ずっと元気で……いて欲しいから……」
言葉を詰まらせた綾音は、視線をテーブルへ落とす。
店内のBGMに交じって鼻をすする音が聞こえる。
「ごめん。心配かけちまって。それと、ありがとな」
清志郎が発した一言に、綾音は下を向いたまま首を横に振る。
「俺が生まれる前、祖父ちゃんは、逃げ遅れた宿泊客をかばって柱の下敷きになって死んだ。八年前、親父は、煙に巻かれた子供に自分の酸素マスクを使わせて一酸化炭素中毒で重体となった。すぐに病院へ運び込まれたが、ずっと意識は戻らなかった。結果として、二人とも誰かを助けるために自分が犠牲になった。
祖父ちゃんのことはよくわからねえけど、親父のことははっきりと憶えてる。
清志郎は小さく息を吐くと、遠くを見るような眼差しで天井を見上げる。
「悔しいんだ。このまま時間だけが過ぎていくのが……。これからも火災は起きる。そのたびに消防士は死と隣り合わせの環境に身を置く。ただ、祖父ちゃんや親父みてえなことは絶対にあっちゃいけねえ。だから、俺は自分にできることを精一杯やりてえんだ」
清志郎は、ゆっくりと視線を綾音の方へ向けた。
綾音は、相変わらず下を向いている。
「関係法令を改正して、消防庁直轄の特別消防部隊『カズワリー・フライト』を立ち上げることができた。予算の関係で首都圏をカバーするだけの小部隊しか認められなかったが、組織さえ立ち上がればそれでいい。暫定運用で実績を積めば規模は少しずつ拡大できる。そのためには相応の人間が現場に行って組織の重要性を報告する必要がある。
アヤ、俺は死ぬためにカズワリーへ行くんじゃねえ。死なせねえために行くんだ。消防士にとって、社会にとって、ずっと安全な環境を作るためにな」
綾音がゆっくり顔を上げると、清志郎のギョロリとした目が見つめていた。
『何があっても考えを改めることはない
綾音の脳裏にそんなフレーズが浮かぶ。清志郎との付き合いが長い綾音は、その表情が意味するところを、瞬時に理解した。
「わかったよ。でも、一つ約束して。絶対に無茶はしないって」
「無茶はしねえか……。百パーセントは難しいかもな。九十パーセントじゃだめか?」
清志郎は、眉を潜めて歯切れの悪い言い方をする。
綾音の口から小さなため息が漏れる。ただ、その顔には笑みが浮かんでいた。
「清ちゃんらしい答えだね。じゃあ、百歩譲ってそれでいい。その代わり、もう一つお願いを聞いて」
「一つじゃねえのかよ?」
「十パーセント守れない部分があるんだから、そこを埋め合わせるのは当たり前でしょ?」
綾音は、「譲れない」と言わんばかりに大きな目で清志郎をジロリと睨む。
清志郎は、「仕方ない」といった顔で首を縦に振る。
「お守りはどこにあるの? 昔から清ちゃんの家に伝わる、あのお守り」
「あれか? あれは仏壇の中だ」
「お祖父様もお父様も現場に行くとき必ず持って行ったんだよね?」
「ああ。でも、それがどうかしたのか?」
質問の意図が理解できない清志郎は、眉間に皺を寄せて首を傾げる。
綾音は、視線を逸らして少し恥ずかしそうな顔をする。
「あのね……お守りの中に、私の写真を入れてくれない?」
「なにっ? アヤの写真をか? そいつは厳しいな。いつも監視されてるみてえで落ち着かねえよ」
清志郎は、左手で口髭を撫でながら苦笑いを浮かべる。
「だから、いいんじゃない。私が見ているところでは無茶はできないでしょ? お見合いにも使えるような可愛らしい写真をプロのカメラマンにとってもらうから」
綾音は、左右の髪を耳に掛けながら照れたように笑う。すると、清志郎は何かを思い出したように、二度三度、首を縦に振る。
「アヤ、ついでに見合いでもしたらどうだ? 二十九歳の女に浮いた話が一つもねえなんて大問題だぞ。それに、お前のところ女ばかり三人だろ? 親父さんが、西園寺グループの跡取りを見つけろなんてうるせえんじゃねえか? 何なら、俺の知り合いで将来有望そうなのを紹介しようか?」
次の瞬間、左足の激痛とともに、清志郎は言葉を失う。テーブルの下で、綾音の靴のつま先が清志郎の弁慶の泣き所を直撃した。
「痛ってえ! いきなり何しやがる!?」
「あら? 足が当たっちゃったみたいね。ごめんあそばせ。じゃあ、写真はでき次第渡すから」
清志郎の口から発せられた、悲鳴にも似た言葉を尻目に、綾音は何もなかったようにカバンとカップを手にする。そして、そそくさとその場を後にした。
右手で
「あいつ、何怒ってるんだ? 泣いたり、笑ったり、怒ったり……。二十年付き合っても全然わからねえよ」
とある日曜日の昼下がり、東京下町のとあるカフェでの出来事だった。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます