第23話 決意


 絶え間なく舞い落ちる雪が、いつしか、夜のカンヴァスを白く塗り替えていた。

 半球状の水の壁に覆われた東屋で、向かい合わせに座る、シオンと清志郎。シオンが明暦の大火のことを話し終えると、辺りは水を打ったような静寂に染まった。

 清志郎は、足元に視線を落として両のこぶしをグッと握りしめた。


 当時に何が起きたかは、綾音の話から大体理解していた。しかし、直接シオンから語られたは、想像していた以上にむごく悲しいものだった。

 そんな話をシオンは顔色一つ変えず淡々と話した。清志郎がシオンの立場だったら、そんな風に話す自信はなかった。

 清志郎は思った。シオンは強い女性だと。


『済まなかった』


 沈黙を破るように、シオンの口からポツリと言葉が漏れる。

 清志郎がゆっくり顔を上げると、シオンは隅田川の方を眺めていた。雪明かりに照らされた、表情のない横顔が紙のように白く見えた。


『あたいは何も守れなかった。あたいのことを信じてくれたあのたちも、あたいを助けてくれた渡清吉も、あたい自身も』


 清志郎はシオンの言葉を否定するように、黙って首を横に振る。

 シオンに掛ける言葉が見つからなかった。


『清志郎、あんたに頼みたいことがある。あんたにしかできないことだ。ただ、命を危険にさらすことになる……。あたいは大切な誰かが傷つくのをこれ以上見たくない。あたいのために誰かが犠牲になるのはもう耐えられない……。言ってることが矛盾しているのはわかってる。でも、どうしたらいいかわからないんだ』


 シオンの頬を一筋の涙が伝う。


「情けねえ……。心底情けねえ……」


 わなわなと身体を震わせながら、清志郎は苦しそうに言葉を吐き出した。


「悲しみで押しつぶされそうなヤツがいるのに、俺は何もしてやれねえ。優しい言葉の一つもかけられねえばかりか、傷口に塩を塗るような仕打ちまでしちまった。清吉が今の俺を見たらどう思うだろうな? 怒鳴られて、ぶっ飛ばされて、隅田川に放り込まれるのが落ちだ」


 清志郎はゆっくり立ち上がると、シオンの隣に腰を下ろす。そして、小さな左手に自分の右手を重ね合わせた。

 誰もシオンに触れられないことはわかっていた。ただ、こうすることで少しでもシオンとの距離が縮められる気がした。


「もし俺が清吉だったら、きっと同じことをした。目の前で火が燃えていたら消し止める。助けを求めているヤツがいたら助ける。それが火消しってもんだ。今も昔も変わらねえ。

 それから、もし俺がお前だったら、悩んだと思う。ただ、俺は前に進むことができるなら何だってやる。絶対に逃げたりはしねえ。もちろん他人を救うために大切な誰かを犠牲にするってのは感心しねえ。でもな、全員を守れる可能性がわずかでもあるならやってやる。『できねえかもしれねえ』なんて思ったら失敗する。『絶対にできる』と思うことが大事なんだ」


 清志郎の真剣な眼差しが、シオンの瞳に注がれる。


「シオン、俺に何ができるかはわからねえ。でも、それが俺にしかできねえことなら絶対にやり遂げる」


『清志郎……』


 無表情だった、シオンの顔に笑みが浮かぶ。同時に、瞳から大粒の涙が溢れ出した。

 清志郎は思った――シオンは強い女性ではなく、強い女性を演じているだけだと。自分が守ってやらなければいけないと。


『あたいの声を聞いてくれたのがあんたで良かった。あんたはあたいが守る。あたいが絶対に守るから』


 重ねた清志郎の手に頬を寄せて、シオンは同じ言葉を何度も繰り返した。


★★


「よくわからねえことがあるんだ。教えてくれねえか?」


 シオンの様子が落ちついたのを見計らって、清志郎は尋ねた。


『あたいのスリーサイズならお断りだよ。人様に言えるようなものじゃないからね』


 少し開いた胸元を覗きながら、シオンはおどけた様子で答える。


「だ、だれがそんなこと訊くかよ! セクハラじゃねぇか! 俺は真面目に話してるんだぜ!」


『悪かったよ。何でも聞いとくれ。あんたに隠し事はしないよ』


 恥ずかしそうに目を逸らす清志郎に、シオンはにこやかに言った。


「聞きたかったのは、明暦の大火のとき、お前の声が出なくなった理由と、そのときに聞こえた、お前にそっくりな声の正体だ。一酸化炭素中毒で正常な思考が失われているようなヤツを騙すならともかく、屋敷の辺りにいる全員を騙すなんて可能なのか? 可能だとしたら、それは物真似なんてレベルじゃねえ。しかも、騒がしい火災現場で声がはっきり聞き取れたのも信じられねえ。電子機器が発達した現代ならともかく、江戸時代の技術でできる芸当じゃねえぞ」


 清志郎がいぶかしそうな表情を浮かべると、シオンの顔から笑みが消えた。和やかだった、東屋の雰囲気が一変する。


『その通りさ。あんな芸当ができる人間なんているわけがない。でも、にならできてもおかしくないってことさ』


 シオンの言葉に激しい怒りが感じられる。

 清志郎は、やはりそうだったと言わんばかりにゆっくり頷いた。


『あたいらは、初めから踊らされてたんだ。ヒノカグツチのヤツに……。江戸の町に火を放ったのはあくまで人間だ。ただ、ヒノカグツチはそれを利用した。

 当時、水と火の力は均衡を保っていた。火の神ヒノカグツチの暴走を水の神ミヅハノメが許すはずはなかった。ミヅハノメに聞いた話では、八百万やおよろずの神の中にヒノカグツチに手を貸したヤツがいる。状況からすれば「音之響神ネノヒビキ」とかいう、音を司る神だ。そいつならあんな芸当は朝飯前らしい。神の中にもどうしようもないのがいるってことさ』


 シオンは、深いため息をついて首を横に振った。


『あのときの状況はヒノカグツチにとって渡りに船だった。信じていた者に裏切られた、たくさんの人間が放つ、憎しみや悲しみが蓄積した「負のエネルギー」を使えば、自分の目的が達成できると考えたんだ。ただ、そのエネルギーはあくまでに過ぎない。あたいと仲間は、あのクソ野郎の身勝手で自己中な計画のダシに使われたのさ!』


 シオンの言葉に呼応するように東屋を覆う、水の壁が激しく振動する。

 それは、シオンのやり場のない怒りが具現化したもの。

 そのとき、清志郎は、シオンの思いを身体で感じることで、シオンとの距離が縮まったような気がした。


「シオン、改めて訊く。俺は何をすればいい?」


 短いフレーズを噛みしめるように清志郎はゆっくりと言った。

 真っ直ぐに見つめる、二つの瞳に決意がみなぎっている。

 シオンは思った――清志郎なら呪われた歴史に終止符を打つことができるかもしれないと。


『明日の午後、もう一度ここに来てくれないかい? 詳しいことは、そのとき話すよ』


「ああ、わかった」


 清志郎が二つ返事で了承すると、シオンは何か言いたそうにチラチラと清志郎の顔を見る。


「どうした? 言いたいことがあるなら言えよ。俺たちの間で隠し事はなしだ」


 清志郎がにこやかなな表情を浮かべる。

 シオンは、上目遣いで清志郎の顔を見て、どこか躊躇ためらいがちに呟いた。


『清志郎、いっしょに過去の世界へ行っておくれ。あたいと一つになって』



 つづく

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