第22話 失われしもの


 そのとき、シオンが耳にしたのは、紛れもなくだった。


「シオン! お前の仕業なのか!? 最初から俺たちを殺すつもりだったのか!?」

「熱いよ! シオンねえさん! 熱いよ!」

「どうしてこんなことを……。シオンちゃん、大好きだったのに」

「お前のことは死んでも忘れんぞ!」

「こんなのってないよ! 姐さんのこと絶対に許せない! 呪ってやる! 永遠に呪ってやるから!」


 真っ赤に燃え盛る炎の向こうから、たくさんの人の声が聞えてくる。そのほとんどは、シオンに対する怒りと憎しみが込められたものだった。

 シオンの偽者が発した声は大広間にも届いており、どの人もそれをシオン本人のものと思い込んでいる。


『あたいじゃない! あたいじゃないんだ!』


 シオンは、激しく首を横に振りながら、喉の奥から必死に声を絞り出そうとした。しかし、伝えたい言葉は何一つ声にならなかった。


 そのとき、シオンの目に、控えの間の入り口付近に置かれた、大きな花瓶が映った。

 シオンは、振り袖のたもとを乱暴に引きちぎり、足早に花瓶のところへ向かった。必死の形相で花瓶を持ち上げ、頭から水を被ると、引きちぎった振袖を口元に当てて、今度は大広間の方へ駆け出した。

 半ばパニックに陥りながら「仲間を助けたい」といった、強い思いがシオンを突き動かした――が、そんな思いを嘲笑あざわらうかのように、再びがあたりを席巻する。


「苦しいかい? 悔しいかい? そりゃそうだろうね。なにも悪いことをしていないのに生きたまま焼かれるんだから。あたいを恨む? あたいを呪う? 上等じゃないか。やれるものならやってみなよ。このシオン、いつでも受けて立ってやる。文句があるならあの世でお言い!」


 その瞬間、廊下の炎が天井まで立ち上り、シオンの行く手を阻む。大広間への道が完全に閉ざされた。

 シオンは、炎の壁の前に立って、仲間一人ひとりの名前を呼び続けた。声が出ないことはわかっていた。ただ、それぐらいしか、自分にできることが思いつかなかった。


 時間が経つにつれ、大広間から聞こえていた、シオンへの恨み辛みは小さく弱々しいものへと変わっていく。そして、いつしか何も聞こえなくなった。


 肩で息をしながら後ろを振り返ると、控えの間や階段にも火が回っていた。火元は一箇所ではなかった。「火薬を使った時限発火装置による同時多発テロ」。それは、短時間で広範囲に被害を及ぼすことを可能にするものだった。

 何者かがシオンを陥れようとしているのは明らかだった。しかし、なぜそこまでする必要があるのだろう。シオンのことをよく思わない者の仕業だとしても、計画があまりにも大掛かり過ぎる。シオンの存在が邪魔であるなら一人でいるところを襲撃すれば済む話だ。


 そもそも、どんな方法を用いれば、他人の声を出せなくすることができるのだろう。薬を盛られた形跡もなければ、身体をどうこうされた記憶もない。加えて、シオンが聞いた声は、他人が真似をしたようなものではなくシオンの声そのもの。「声を奪われた」という表現がぴったりだった。


 シオンの脳裏を様々な思考が駆け巡る。

 ただ、今となってはどうでもいいことだった。仲間を失い孤立したシオンを深い絶望が包み込む。


『あたいは、これ以上、生きてちゃいけない』

 

 シオンは、その場に力なくしゃがみこむ。

 顔からはあらゆる表情が消え失せ、焦点の合っていない、虚ろな眼差しが宙を泳ぐ。まるで、魂の抜け殻のようだった。

 燃え盛る炎が、ゆらゆら揺れながら四方から近づいて来る。もうどこにも逃げ場などなかった。

 次の瞬間、シオン目掛けて、天井を支える柱が崩れ落ちた。


★★


「……嬢ちゃん……おい、嬢ちゃん……しっかりしろ……しっかりするんだ……」


 微かに声が聞えた。

 目を開けると、そこには火事装束を身にまとった、大柄な初老の男の姿があった。火のついた柱を背中で受け止め、シオンをかばうように立っている。

 言葉を発せないシオンは、目に涙を溜めて首を何度も横に振る。「自分に構わず逃げて」。そんな意思表示だった。


「あんた、口がきけないのか? でも、大体わかったぜ。『自分に構わず行け』って言ってるんだろ? だが、断る。それじゃあ、このわたり 清吉せいきちがここに来た意味がないからな。もうすぐ俺の仲間が避難路を確保する。そうしたら、思い切り走るんだ」


 渡清吉と名乗った、その男は、身体を震わせながら笑顔を取り繕う。


「嬢ちゃん、俺のいうことを聞いてくれ。今、江戸の町がとんでもないことになっている。これまで経験したことがない、でかい火事が起きてる。俺は火消しとして一人でも多くの人を助けたい。だから、嬢ちゃんにも助かって欲しい。何があったのかは知らないが、命を粗末にしちゃいけない」


 清吉のあごを伝った汗の粒が、ポタポタとシオンの顔のあたりに滴り落ちた。

 そのとき、階下から、火をくぐるように一人の若い火消しが姿を現す。


「お、親方……! すぐにみんなを呼んできますから!」


 清吉の姿を見た瞬間、若い火消しの顔色が変わった。


「来るんじゃない! 俺が離れたら天井が崩れ落ちる! 階段のとろこにいる奴らに撤退するよう伝えろ! お前は、この嬢ちゃんを連れて早く逃げ……ガハっ!」


 清吉の口から吐き出された鮮血が辺りを真っ赤に染めた。


「長くはもたない。早くしろ……。言うこときかねえと……ぶっ飛ばすぞ!」


 清吉は、荒い呼吸をしながら、血走った目で若い火消しを睨みつける。

 若い火消しは、清吉の表情と言葉から退きならない状況に置かれていることを悟る。


「親方、すぐに戻ります! もう少しがんばってください!」


 若い火消しは、シオンを背中に担ぎ上げると階段の方へ走り出した。階段にも火が燃え広がっていたが、仲間の火消しが必死に退路を確保していた。彼は、足早に階段を駆け下り、転がるように中庭へ飛び出した。最後は、勢い余って芝生の上に前のめりに倒れ込む。


「みんな! 親方が天井から落ちてきた柱を支えてる! これから親方を助けに行く! 手を貸してくれ!」


 起き上がるや否や、若い火消しは、大声で言い放つ。すると、その声に呼応するように、数人の火消しが階段の方へ集結する。その様子から、清吉が仲間にとってどれほど大切な存在であるかがわかった。


 不意に辺りに轟音が鳴り響く。

 それは、清吉がいる、二階の階段付近が崩れ落ちる音だった。


 今にも屋敷に突入しようとしていた火消したちは、歩を止めてその場に茫然と立ち尽くす。そこには、目を大きく見開いたまま微動だにしないシオンの姿もあった。


「なんで……? なんでだよ……? なんでこうなるんだよ!」


 シオンは、全身を震わせながら大声で叫んだ。

 さっきまでの状況が嘘であるかのように、普通に声を発することができた。

 自分が置かれた理不尽な状況に耐え切れず、シオンは、人目をはばからず声をあげて泣いた。涙が枯れるぐらいに、いつまでも泣き続けた。


★★★


 一六五七年、江戸の街の広範囲を焼き尽くし多数の死傷者を出した火災は、江戸の三大大火の一つ「明暦の大火」として後世に語り継がれる。


 大火の後、幕府による調査が行われ、一連の火災は南城家を中心とした外様大名による、国家反逆の企てと断定された。

 計画に携わった者は厳罰を科されることとなり、シオンも首謀者の一人として取り調べを受けた。


 奉行所の白州の場で、シオンは犯行への関わりを全面的に否定した。

 しかし、シオンの主張は一切受け入れられなかった。

 南城家の屋敷で複数の者が聞いた、犯行声明とも取れると、事前に南城家から支払われていた、が動かぬ証拠となった。


 刑の執行方法は斬首・獄門――首を切られた後、その首を台に乗せて数日間通行人の目にさらすという残酷なもの。

 シオンは刑が執行される直前まで自らの潔白を訴え続けた。なりふり構わず必死に訴え続けた。

 あのとき自分は声が出せなかった。あの声は自分の名前を語った誰かの仕業だ。自分は四十人の大切な仲間を失った被害者だ。犯行によって何も得られるものはない――と。


 シオンが必死に無罪を主張した理由は、死にたくなかったからではなく、から。

 自らの命を犠牲にしてシオンを助けてくれた渡清吉のためにも生き続けなければならないと思った。ここで死んだら清吉に顔向けができないと思った。

 しかし、無情にも、シオンの言葉に耳を貸す者は誰一人としていなかった。


 刑は、滞りなく執行された。

 隅田川のほとりが、あでやかな桜の花で埋め尽くされた頃のことだった。



 つづく

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