第45話 誤算


 白いもやがかかったように、意識が朦朧もうろうとしている。

 自分が小綺麗こぎれいな和室にいるのがわかった。静寂が漂う、広々とした空間に一人ポツンと座っている。

 見覚えのある場所だったが、それがどこなのか思い出せない。


 部屋の隅に、大きな鏡が据え付けられた鏡台がいくつか置かれている。

 ゆっくり立ち上がって、そのうちの一つを覗きこんだ。

 そこには、派手目の化粧を施しあでやかな衣装に身を包んだ、一人の歌姫の姿があった。


 どこからか、楽器の演奏と女性の歌声が聞こえてくる。耳をそばだてると、頭の中に立ちこめたもやが少しずつ晴れていく。

 鏡台の脇に飾られた一輪挿いちりんざしに目が行ったとき、脳裏に遠い記憶が蘇ってきた。


『あたいは、この花瓶の水を頭から被ったことがある』


 シオンは、着物のすそをつまんで足早に廊下の方へ向かう。そして、引き戸を勢いよく開けた。

 廊下には白い煙が立ち込め、一階へ続く階段と突き当たりの大広間の辺りが火の海と化していた。


『……火が出る前じゃない……あたいの舞台が終わった後……火が出た後だ』


 シオンの顔に恐怖と狼狽ろうばいが入り混じったような表情が浮かぶ。

 今いるのは明暦の大火あのときに間違いない。しかし、時間が一時間以上ずれていた。


『ミヅハノメ! どうなっているんだい!? ミヅハノメ!』


 半ばパニックに陥りながら、シオンはミヅハノメの名前を叫ぶ――が、言葉は声にならなかった。もう一度叫んでみたが、やはり同じだった。

 シオンは理解した。既に声が奪われていることを。そして、心の声もミヅハノメには届かないことを。


 大広間の方がにわかに騒がしくなる。仲間の芸子や要人が火災の発生に気づいたようだ。


「火事だ! 逃げろ!」

「ダメだ! 囲まれてる!」

「いやぁ! 誰か!」

「助けて! シオン姐さん!」


 たくさんの人が助けを求める声が聞えた。

 シオンと大広間の間を炎と煙が隔てているため、中の様子をうかがい知ることはできない。ただ、廊下の状況と似たり寄ったりであるのは間違いない。

 シオンの頭の中で、当時の記憶と目の前の光景が重なった。


『これじゃあ、あのときと何も変わらない』


 残酷な現実を突き付けられ、シオンは目を伏せて苦悩の表情を浮かべる。

 しかし、次の瞬間、シオンは、頭を激しく左右に振ってキッと顔を上げた。


『違う。同じじゃない。一つだけ違うことがある』


 火の粉と煙が漂う中、シオンは着物の袖で口元を覆うと何かを探すようにあたりを走り回った。声にならない声で必死に叫びながら。


『清志郎! どこだい? どこにいるんだい? お願いだ! あたいを助けておくれ! あんたの力が必要なんだ! 清志郎!』


 ただ、シオンの心の声に答える者は誰もいなかった。

 足を止めたシオンは、激しく咳き込みながら肩を上下させる。大きな不安が心にのし掛かるとともに「ある考え」が脳裏をよぎった。


 心的波動同調シンクロは成功した。ただ、ワームホールを潜ろうとしたとき、憎悪の炎が清志郎の身体に襲い掛かった。

 計画では、火災が発生する一時間前の世界に送られるはずだったが、実際は、火災が発生した直後だった。時間がずれた原因は、ワームホールに何かトラブルが生じたからではないか。

 憎悪の炎の攻撃により清志郎が致命傷を負い、この世界へたどり着いたものの力尽きた可能性も否めない。


『考えたくない。でも、今はを想定しないといけない』


 シオンは、震える身体を両手で抱きしめながらグッと唇を噛む。


『今のあたいに何ができる? 大広間にはとても行けやしない。一階に下りる階段にも火が回ってる。助けを呼びに行くのも無理だ。ただ、このまま指を咥えていても埒が明かない。何とかしないと……』


 シオンの顔つきが険しくなる。思い詰めたような表情が浮かんでいる。

 突然、シオンは控室の方へ走り出す。花瓶の水を頭から被って、小走りに大広間の方へ向かう。


 立ち上る炎の向こうから助けを呼ぶ声が聞える。しかし、水の力が使えないシオンには、火に対して無力だった。

 できることと言えば、自分の偽物が現れる前に仲間のところへ行って「シオンが火をつけてみんなを殺そうとした」といった認識を消し去ること。そうすることで、ヒノカグツチの野望を食い止めること。

 そのためには、燃え盛る炎の中に身を投じなければならなかった。


 一度は死んだ身ゆえ、命を捨てる覚悟はあった。ただ、仲間の命だけは何としても救いたかった。それがままならない状況にあるのが、何とももどかしかった。


『こんなあたいを見たら、あんたたちは怒るだろうね。でも、今のあたいには、こんなことしかできないんだ。今、何もしなければ、あたいが戻って来た意味がなくなっちまう。この炎は憎悪の炎じゃない。あたいを一瞬で消滅させることはできやしない。息絶える前にみんなのところへたどり着いてみせるよ』


 シオンは、清志郎と綾音に語り掛けるように心の中で呟く。


『できたら、もう一度会いたかったよ。あんたたちに』


 頭から被った、花瓶の水がシオンの頬を伝う。伝ったのは花瓶の水だけではなかった。

 着物の袖で目のあたりをグイッと拭うと、シオンは炎の方へ目を向けた。燃え盛る業火がシオンを見下しているように見えた。恐怖で足がすくんでいるのがわかった。


『清志郎、綾音、あたいに勇気を分けておくれ』


 二人の顔を思い浮かべながら、シオンは、炎の方へ足を踏み出した。


★★


 そのとき、背後から大きな音が聞こえた。

 階段から白い煙のようなものが湧き上がり、中に人影らしきものが見える。


「シオン! 無事か!?」


『清志郎……清志郎なのかい!? あんた、生きてたのかい!?』


 声にならない言葉を発しながら、シオンは清志郎の方へ走り寄る。

 無我夢中で抱きつくシオンに、清志郎は、小さく息を吐いて安堵の表情を浮かべる。


「お前、声を奪われちまったのか?」


 清志郎の問い掛けに、シオンは申し訳なさそうに首を縦に振る。

 清志郎はすぐに状況を理解した。


「何があったかは知らねえが、俺たちは火災が発生した直後の世界へ来ちまったみてえだ。ただ、今更そのことをとやかく言っても仕方がねえ。

 シオン、今から俺が特殊消火剤サイレントダウナーをぶち込んで、この辺りの火を消す。俺の姿や声はお前以外には認識できねえ。だから、を使って、お前がみんなを助けるんだ」


 清志郎はリュックサックの中から、カズワリーの本部で作ったチラシを取り出す。シオンは、受け取ったチラシをしげしげと眺めた。

 

 一.もうすぐこの部屋は大火に囲まれる

 二.今なら逃げることができる

 三.落ちついてこの部屋を出ること

 四.すぐに階段を下りて建物から出ること


「これじゃあ、言葉が足りねえな」


 清志郎は、取り出したマジックで、チラシの一番上に「あたいは声が出せない」と書き加えた。


「火が消えたら、みんなのところへ行け。そして、このチラシを見せて階段へ誘導するんだ。階段から外へ続く通路は俺が消火しておいた。おかげで消火剤は残り四つだ。ただ、この程度の火なら四つあれば十分だ。準備はいいか?」


 清志郎は、手袋をはめた右手をシオンの顔の前に掲げる。

 それに答えるように、シオンは、自分の右手でハイタッチをしようとした――が、不意にその手が止まる。

 清志郎の手袋が焦げてボロボロになっているのがわかったから。手袋だけではない。防火服やヘルメットも焦げた跡があり、顔もところどころ火傷の跡がある。

 清志郎が燃え盛る炎と戦いながら、必死にここまで来てくれたのがわかった。シオンと仲間を助けるために。


 突然、シオンはクルリと背中を向ける。


「どうかしたか?」


 清志郎が心配そうに尋ねる。

 シオンは、マジックでチラシの裏に何かを書いている。

 すぐにマジックにキャップをはめて、チラシを清志郎の鼻先に突きつけた。


『あたいらは絶対に負けない』


 シオンの書いた文字を目の当たりにした清志郎は、笑みを浮かべて右手で握りこぶしを作る。右手を握ったシオンは、清志郎の拳に軽くタッチをした。


「シオン、行くぞ!」



 つづく

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