第46話 再会


 清志郎は、燃え盛る炎目掛けて二つの特殊消火剤サイレントダウナーを投げつけた。辺りは白い煙に包まれ、天井まで立ち上っていた炎は見る見る小さくなっていく。

 廊下を大広間の方へ進むと、炎の向こうから、悲鳴混じりの助けを呼ぶ声が聞こえた。

 間髪を容れず、二つの特殊消火剤サイレントダウナーが宙を舞う。廊下と大広間を隔てていた炎は一掃され、白い朝靄あさもやがかかったような空間の向こうに、ぼんやりと人影が見えた。


「シオン、頼む」


 清志郎の言葉に背中を押されるように、シオンは、着物の袖で口元を押さえながら足早に白い空間へと足を踏み入れる。

 視界が開けた瞬間、シオンが目にしたのは、たくさんの懐かしい顔だった。


「シオンちゃんだ! シオンちゃんが助けに来てくれたよ!」

「ありがとう、姐さん! やっぱり姐さんはあたいらの姐さんだ!」

「また助けてくれたんだ! シオン姐さん、大好き!」

「信じてたよ、シオン。絶対に来てくれるって」


 芸子たちには、清志郎の姿も特殊消火剤サイレントダウナーの煙も見えていない。天井まで立ち上っていた炎が突然消えてシオンが現れたことで、誰もが「シオンが火を消して自分たちを助けてくれた」と思い込んだ。


 肩を上下させながら、その場にたたずむシオンの周りを、仲間の芸子たちが取り囲む。どの顔にも満面の笑みが浮かび、シオンに抱きついたり手を握ったりしながら感謝の言葉を口にする。

 それは、三百年以上の間、シオンがずっと待ち望んだ瞬間――一時いっときたりとも忘れることなどなかった瞬間だった。


 瞬時に瞳を満たした涙が、大きなしずくとなってポロポロと頬を伝う。

 シオンは、声にならない声をあげて人目もはばからず泣いた。小さな子供のように顔をぐちゃぐちゃにして泣きじゃくった。

 安堵と歓喜が合わさった涙は止まることがなく、まるでせきが切れたようだった。


 そんなシオンの様子に芸子たちは呆気にとられる。

 これまでシオンが公衆の面前で泣いたことはほとんどなく、これほど大泣きしたシオンを見るのも初めてだったから。

 芸子たちは、シオンが自分たちに深い愛情を注いでくれているのを改めて感じた。いつの間にか、どの顔もぐしゃぐしゃになり、シオンといっしょに声をあげて泣いていた。


「シオン、水を差すようで悪いが……」


 シオンの耳元で、清志郎が躊躇ためらいがちに声を掛ける。

 ハッと我に返ったシオンは、恥ずかしそうに指先で涙をぬぐう。


「みんなを避難させてくれ。まだ百パーセント安全とは言えねえからな」


 シオンは、小さく頷くと、ふところから取り出したチラシをみんなの前に掲げた。


「姐さん、わかったよ」

「みんな、急ごう」

「すぐに階段を降りるんだ」

「お侍さんたちにも声を掛けておくれ」


 チラシを見た芸子たちは、互いに声を掛け合いながら足早に階段の方へと向かう。幕府の関係者が後に続く。

 シオンは、一人一人の顔と人数を確認しながら全員が避難するのを見届けると、ホッとした表情を浮かべた。


「シオン、よくやった。お疲れさん」


 清志郎の労いの言葉に、シオンは、はにかんだような笑顔を見せる。


「みんなに会えて良かったな。さっきのお前、最高に良い顔してたぞ。俺も自分のことみてえにうれしかった」


 清志郎は、シオンの頭を優しく撫でる。

 想定外の出来事に、シオンは思わず下を向く。胸のあたりが苦しくてたまらなかった。ただ、それ以上に苦しかったのは、声が出せなかったこと。「ありがとう」。その一言が言えない自分がとてももどかしかった。


★★


「あと三十分弱か……」


 腕時計リストウオッチを見ながら、清志郎はポツリと呟く。

 清志郎がこの世界に留まれるのは一時間きっかり。残り時間を把握するため、心的波動同調シンクロが切れると同時に、腕時計リストウオッチのカウントダウン機能を稼働させていた。


「シオン、俺たちもここから出るぞ。この火事で江戸の町はパニックに陥ってる。特殊消火剤サイレントダウナーはなくなっちまったが、残った時間で俺ができることをする」


 清志郎の言葉に、シオンは、はーっとため息をつく。


『東京の人間が江戸に来るなんてあり得ないことだよ? 江戸の観光をしたいとか、何か食べたいとか思わないのかい? 相変わらずくそ真面目なんだから……。でも、そこがあんたのあんたらしいところだね』


 シオンは、清志郎の顔を見ながらプッと噴き出すような顔をする。

 その表情から何かを察したのか、清志郎は、ギョロっとした目でシオンをにらみつける。


「おい、シオン。今、俺のことバカにしただろ?」


 シオンは、悪戯いたずらを成功させた子供のようにペロッと舌を出して、逃げるように階段の方へと駆け出した。

 


 普通であれば、気付くことはなかっただろう。

 たとえ気付いたとしても、取るに足りぬことで済ませてしまっただろう。

 ただ、火災現場では人一倍鋭い感性を発揮する清志郎は違った。決してを見逃さなかった。

 五感ではない何か――第六感のようなものが働いたのかもしれない。「絶対にシオンを守る」。そんな強い思いが清志郎に何かを察知させたのかもしれない。



 微かに火薬の臭いがした。

 あたりを見回したが、それらしいものは何も見当たらない。

 今度は、天井がきしむような音が聞こえた。

 清志郎の両の目がカッと見開く。


「シオン!」


 突然、清志郎がシオンの方へ走り出した。

 時を同じくして、辺りに爆音が響きわたり天井が炎に包まれた。

 天井を支える柱がスローモーションのように落下していく。


 火薬を使った時限発火装置――ここへ来る途中、清志郎は、シオンが作った地図をもとに、起動前のものを排除し、起動により発生した火を消して回った。

 しかし、たった今起動したのは、もともと地図には記されていないものだった。


『清志郎!』


 シオンの声が聞えたような気がした。


「くそったれ!」


 清志郎は、野球選手がヘッドスライディングをするように上半身から飛び込むと、シオンを廊下の隅に突き飛ばした。

 その瞬間、清志郎の頭上から数本の柱が重なり合うように崩れ落ちた。


 シオンは、すぐに起き上がって清志郎の方へ目をやる。

 そこには、うつ伏せに倒れ、背中から足にかけて何本もの柱が圧し掛る清志郎の姿があった。

 シオンは、慌てて清志郎のところへ歩み寄ると、手をとって必死に引っ張り出そうとする。しかし、複数の柱に押さえつけられた身体は全く動かない。柱を退けようと試みたが、女の力ではビクともしない。そればかりか、柱の端についた火が少しずつ清志郎の方へ向かっていた。


「……シオン、逃げろ……今ならまだ階段が生きてる……早くしねえと火が回る……」


 苦しそうな表情で、清志郎は言葉を絞り出す。

 シオンは、清志郎の手を引っ張りながら何度も首を横に振る。


「……言うことを聞け……俺の両足はたぶん折れてる……背中と腰もやられてるかもしれねえ……ここから出られたとしてもまともに歩けねえ……シオン、俺から離れろ……早くしろ……」


 柱の火が清志郎の方へ近づいてくる。同時に、立ち上る炎が階段の方へと伸びていく。退路が断たれるのは時間の問題だった。


 シオンは考えた。「自分が助けを呼びに言けば、誰かが清志郎を助けてくれるのか?」――答えはNO。

 仮に、清志郎が柱の下敷きになっていることを文字で伝えたとしても、誰も清志郎の存在を認識することはできない。二階が今にも崩れ落ちそうな状況にあることを考えれば、見えない誰かを助けに来る者などいるはずがない。


 清志郎がこの世界に居られる時間は、残り三十分を切っている。時間が来れば清志郎は自動的に現代へ戻っていく。

 シオンは再び考えた。「清志郎は、三十分持ちこたえられるのか?」――答えはNO。

 今の状況から、数分後には二階全体に火の手が回る。火を消したとしても二階の屋根が崩れ落ちて下敷きになる可能性が高い。とても三十分はもたない。


『畜生、水の力さえあれば……。あたいは、また仲間を見殺しにするのか……』


 清志郎の両手を握り締めながら、シオンは悔しさのあまり肩を震わせる。清志郎の手にポタポタと涙のしずくがこぼれ落ちる。


「シオン、聞いてくれ……。俺がこの世界に来たのは、お前とお前の仲間、それに、アヤとカズワリーのみんなを救うため……。これで歴史は変わる。俺は役目を果たすことができた……。でも、ここでお前を死なせたら、俺は役目を果たせなかったことになる。だから、お前が死ぬことは絶対に許さねえ……。シオン、言うことを聞かねえなら、俺は……一生お前を恨む」


 荒い呼吸といっしょに、清志郎の口から発せられたのは、シオンを突き放すような言葉だった。

 シオンは、大粒の涙を流しながら嗚咽おえつを漏らす。


『違う世界だっていい。あたいはあんたに生きて欲しい。綾音とも約束したんだ。あんたを無事に帰すって……。ミヅハノメが言ってた。もしここでくたばっちまったら、歴史が変わったとしても、あんたには居場所がなくなる。あんたがいなくなったことを誰も認識できなくなる。になっちまうんだ。そんなことは、絶対にあっちゃいけない』


 いくら心で叫んでも清志郎に聞こえないのはわかっていた。ただ、叫ばずにはいられなかった。


「シオン、何度も言わせるな。早く逃げ――」


 不意に清志郎の言葉が途切れた。

 なぜなら、シオンの唇が清志郎の口を塞いだから。

 清志郎の顔を両手で抱き締めるように、シオンは生まれて初めてのキスをした。

 それは、いつか見た外国映画のヒロインの見よう見まね。ただ、キスは、特別な行為であって、大切な意味があることはわかっていた。


 清志郎は大切なひと

 こんなところで失うわけにはいかないひと

 命を懸けて守らなければいけないひと


 そのとき、シオンは自分の心の声を聞いた。

 シオンのキスの意味――それは、清志郎に「勇気」をもらうことだった。


「シオン……」


 唇が離れた瞬間、清志郎は驚いた顔をする。

 間髪を容れず、シオンは、チラシに走り書きをして、それを清志郎の目の前に掲げた。


 嫌われたっていい

 絶対に逃げない

 あたいの歌であんたを救ってみせる



 つづく

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