第20話 水の力
★
「俺のことは『清志郎』でいい。仲間はみんなそう呼んでる」
清志郎が口にした、仲間という言葉がシオンの心に強く響いた。
三百年以上の間、シオンが言葉を交わしたのはミヅハノメとだけ。ただ、彼女は神様であって仲間と呼ぶにはおこがましい存在。
清志郎は、シオンにとって、久しぶりにできた仲間だった。
『あんたがそこまで言うなら仕方がないね。これからは名前で呼んでやるよ。よろしくな……清志……郎……」
シオンは、視線を逸らしながら、ぎこちない言い方をする。少しずつ声が小さくなり、最後はほとんど聞き取れなかった。
「ありがとな。こちらこそよろしく頼む……。お前、顔が赤くねえか? 熱があるわけじゃねえよな?」
『バ、バカも大概にしな! 幽霊が病気になんかなるもんかい! 気のせいだ! 断じて気のせいだ! 渡の末……清志郎』
シオンは、顔を背けて必死に否定する。
「それならいい。ムキになることねえよ」
『ムキになんかなっちゃいないよ! あんたの勘違いだ!』
「わかった、わかった。この話はこれで終わりにする」
顔を赤らめて口を
「シオン、いくつか話してえことがある。それに訊きてえこともある」
『それなら場所を変えないかい? 気温がかなり下がってる。このまま雪だるまになって凍死したくはないだろ? あんたに死なれたらあたいも困るしね。話はそこの
そう言うが早いか、シオンは跳ねるような、軽い足取りで東屋の方へと向かう。清志郎は、身体に積もった雪を
東屋は、四角錐の屋根を六本の柱が支える、簡易な木造建築物。
内側には、ベンチが四つ設けられ、八人程度が座ることができる。ただし、四方に壁が無いため、風雪に
ベンチに腰を下ろした清志郎だったが、外にいるのと変わらない状況に、シオンが場所を変更した意味がよく理解できなかった。
そんな清志郎の様子を横目で見ながら、シオンはフフンと含み笑いを浮かべる。
『清志郎? あんた、今こんなことを思っていないかい? 「東屋の中も雪がひどいじゃないか。シオンのヤツ、こんなところへ連れてきてどういうつもりなんだ?」ってね。まぁ、見てな。すぐに、ここを快適空間へ変えてやるから』
シオンは、小さく深呼吸をして静かに目を閉じる。東屋の中に、透明感のある、美しい歌声が響き渡る。
シオンが歌っているのは、一九八十年代にヒットした洋楽「ラ・イスラ・ボニータ」。気怠さとしっとり感が漂う、真夜中にはもってこいの曲。
江戸の歌姫が洋楽と聞くとかなりミスマッチな感じがするが、シオンの歌に違和感はなく、そのボーカルは、本家のマドンナと比べても遜色ないものだった。
シオンの歌声に聞き惚れる清志郎だったが、自分の周りに変化が起きていることに気付く。
歌声に引き寄せられるように、周囲から水の
『どうだい? 東屋は別世界になっただろ? 遠慮はいらないよ。ゆっくりしていっておくれ』
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする清志郎に、シオンはしたり顔で続ける。
『なあに、簡単なことさ。まず隅田川の水で壁を作って東屋を外気から遮断する。次に水の分子を高速で振動させる。そうすれば、熱エネルギーが発生して水温が上昇する。自ずと東屋の温度も上がる。そんなところさ……。マドンナも悪くないだろ? あたいの好きなアーティストの一人さ』
シオンは、わずかな時間で、氷点下の凍てつく世界を温室のような快適空間へと変えた。その力は「神の加護を受けているのは伊達ではない」と思わせるものであり、文字通り、
『あたいの力は、歌い方ひとつで応用が効くんだ。例えば、水の動きを持続させるイメージをもって歌えば、歌うのを止めても、しばらくはイメージした状態を保つことができる。今回は東屋の中を快適空間にしたが、真空状態にすることだってできる。あんたさえ良ければ実演してやってもいいよ』
「遠慮しとく。俺はまだ死にたくねえからな」
『わかってるさ。冗談だよ』
苦笑いを浮かべる清志郎を
★★
「それはそうと、お前、昔からこのあたりに居るんだよな?」
『ああ。昼間にも言ったが、あたいはミヅハノメの力の源である隅田川から離れることはできない。浜町公園からは出られないのさ』
「じゃあ、俺たちは以前に会ってるかもしれねえ。俺は生まれてからずっとこのあたりに住んでて、何かあるといつもここへ来てたんだ」
『そうなんだね』
シオンはどこか申し訳なさそうな顔をする。
『あたいはこれまで、数えきれないぐらいたくさんの人を見てきた。でも、誰とも話なんかしたことはない。だから、一人ひとりの顔までは憶えちゃいない。悪いね、清志郎』
清志郎は、そうじゃないと言わんばかりに首を大きく横に振る。
「勘違いしないでくれ。お前に謝ってもらいたいわけじゃねえ。俺だって、お前の声も聞こえなければ存在すら感じ取れなかった。夢の中でお前の姿を見始めたのも二年前ぐらいからだ。ただ、隅田川に来ると不思議な感覚があったんだ」
『不思議な感覚?』
「ああ。俺は、悲しいことがあったとき、その思いを隅田川にぶつけた。嬉しいことがあったときは、自慢するように話をした。そしたら、悲しみは消え失せ、喜びは大きくなった。ずっと不思議に思っていたが、その謎が解けた気がする」
清志郎は、正面に座るシオンの方にグイっと身を乗り出す。
「お前、憎悪の炎と戦う
清志郎の問掛けにフッと笑みを浮かべると、シオンは遠くを見るような目をする。
『ああ。歌っていた。いつも歌っていた。あたいは歌ってなんぼの歌姫だからね。誰にも聞こえないのにおかしいだろ?』
清志郎は、黙って首を横に振る。
「俺には、お前の歌は聞こえなかった。でも、お前の歌は俺の心に届いていた気がする。お前の歌で救われたことは一度や二度じゃねえ。きっと、俺以外にもそんな感覚を抱いた人はたくさんいる。そんな人は再び隅田川を訪れる。隅田川がみんなの憩いの場所になったのは、シオン、お前がずっと歌ってくれていたからだ」
『あたいの歌が……誰かの役に立ったってことかい?』
シオンは感慨深げな表情を浮かべながら、何かを思い出すように目を細める。
『いつだったか、夕暮れに泣いていた子供がいたよ。親に叱られたみたいで帰りたくなさそうな顔をしていた。だから、動揺「赤とんぼ」を歌ったんだ。しばらくしたら、その子は笑顔で帰って行ったよ。
中学の入学試験に受かって報告をしに来た子がいた。その子のことは何となく憶えていた。「成績が上がらない。もう死にたい」なんて言って思い詰めた顔をしていたからね。あのときは、シューマンの「トロイメライ」に即興で詩をつけて歌ったんだ。歌が終わる頃には表情が変わっていたよ。
これまで毎日歌っていた。誰にも聞こえていないのにバカみたいだと思ったこともある。でも、歌い続けて良かったよ。こうして、あんたとも出会えたしね』
シオンは、隅田川の方に目を向けて優しい笑みを浮かべる。
そのときのシオンは、清志郎がこれまで見た中で一番良い表情をしていた。人でありながら、
「シオン、俺はお前に心から感謝してる。だから、どんなことがあっても、お前の願いを叶える。教えてくれ。俺は何をすればいい?」
太い眉の下でギョロっとした目がシオンを見つめる。
熱を帯びた、真剣な眼差しに、シオンは思わず吸い込まれそうになった。そして、清志郎に自分のことをもっと知って欲しいと思った。
『清志郎、あんたに聞いて欲しいことがある……。明暦の大火のとき、あたいらに何があったのかを』
つづく
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