第19話 雪の華


 行き交う車もまばらな国道を、清志郎は白い息を吐きながら走った。

 時折、冷たいものが顔に当たる。朝の天気予報で、都心部は夜半からまとまった雪が降ると言っていたのを思い出した。

 最初は肉眼で捉えられなかったは、次第に勢いを増し、浜町公園に着く頃には頭や肩に薄っすらと積もっていた。


 人っ子一人いない園内を息を整えながら歩いていくと、背の高い樹木の林を抜けたあたりで、街明かりに照らされた隅田川が姿を現す。

 再び、清志郎は走り出した。


「シオン! 俺だ! 渡清志郎だ! 返事をしてくれ! 頼む!」


 夜の静寂しじまに、清志郎の大きな声が響き渡る。

 しばらく公園の中を走り回った。しかし、シオンの姿はどこにも見当たらない。

 歩を緩めて宇宙そらを見上げると、吐き出した息が同化するぐらい雪が空間を埋め尽くしていた。


 不意に、どこからか歌声が聞こえた。

 耳を澄ますと、それは、昔、清志郎が聞いたことがある曲――中島美嘉の「雪の華」だった。歌っているのはおそらくシオン。「おそらく」と言ったのは、昼間とは雰囲気が違ったから。

 聞く者を魅了するものであることに変わりはないが、その声は悲しみを帯びていた。


 歌は隅田川の下流に架かる新大橋の方から聞こえてくる。

 円柱形の橋脚の脇に目をやると、白く輝く水面みなもに誰かが立っている。水深が五メートル近いことを考えれば「浮かんでいる」と言った方が正しい。


 振り袖をまとった、おかっぱ頭の女性が胸の前で両手を重ねて天を仰いでいる。舞い落ちる、雪の欠片かけらがダイヤモンドダストのような、まばゆい輝きを放つ。まるで、きらびやかなスポットライトを浴びて熱唱するアーティストのようだった。

 幻想的な景色とあでやかな出立ちに、清志郎の目は釘付けになった。


 ふと我に返ると、清志郎は胸のあたりのモヤモヤを吐き出すように大声で叫んだ。


「シオン! お前と話がしてえ! 頼む!」


 歌声がピタリと止んだ。

 シオンの潤んだ瞳に清志郎の姿が映る。


『あんた……渡の末裔まつえい!?』


 予期せぬ出来事に、シオンは、着物の袖のあたりで慌てて涙を拭う。


『こんな夜更けに何しに来たんだい? まだ文句が言い足りないってことかい? じゃあ、気が済むまでののしるがいいさ。あたいはそれだけのことをやらかしたんだからね』


 シオンは、目を逸らしてグッと唇を噛んだ。


「そうじゃねえ! 昼間のことを謝りに来たんだ!」


『謝る……? 謝るだって!? あんたがあたいにかい!?』


 シオンは、驚いた様子で、再び視線を清志郎の方へ向ける。


「そうだ! お前と話がしてえ! 頼む! この通りだ!」


 深々と頭を下げる清志郎に、シオンは狐につままれたような顔をする。何かを考えるような素振りを見せた後、水面を飛び跳ねるように清志郎の方へ近づいてきた。


『どういうことだい? 渡の末裔』


 シオンは、肌蹴はだけた胸元を整えながら、不思議そうな顔で清志郎を見上げる。

 身長が百五十センチに満たない、華奢きゃしゃな身体つきのシオンが身長百八十センチはある、ガッチリとした体型の清志郎の前に立つと、まるでプロのスポーツ選手とファンの子供のように見える。


「さっき歌ってた曲、『雪の華』だろ? 俺が小さい頃に流行った曲だ。お前、ポップスも歌えるんだな」


『ああ。あたいは一度聞いた曲は歌うことができる。頭の中で楽譜が作れるんだ。曲は公園の管理事務所にある、テレビやラジオ、それにインターネットで聞くことができる。隅田川ここを訪れる人が携帯電話で聞いてることもある。歌詞はうろ覚えだけどね』


「絶対音感って言うんだろ? すげえよな。俺には到底真似できねえ。それに歌もすごく良かった。思わず聞き惚れちまった。さすがは江戸一番の歌姫だ」


『そんなに褒めても何も出ないよ。渡の末裔』


 シオンは満更でもないといった様子で、黒目がちの切れ長の目で清志郎の顔をチラリと見る。雪混じりの風にシオンのサラサラの髪がなびいたように見えた。


 突然、清志郎は、その場にしゃがみ込むと両掌と両膝を地面につける。


「昼間のことを謝りてえ。俺は新宿でお前に助けられた。俺だけじゃねえ。逃げ遅れた二人の子供もだ。それに、お前はこれまでもたくさんの人を炎から守ってくれた。川崎の現場にいた俺の仲間のこともだ。

 それなのに、俺はお前に酷いことを言っちまった。まるでお前が俺の家族や仲間を殺したような言い方をした。やり場のねえ怒りをお前に向けちまった。お前を悪者にすることで自己満足に浸ってた。情けねえにも程がある。

 一度謝って許してもらえるなんて思っちゃいねえ。俺ができることは何でもやるつもりだ。本当に申し訳なかった。この通りだ」


 清志郎は、額が地面につくぐらいに深々と頭を下げた。


『わかった。許すよ』


 間髪を容れず、シオンがポツリと言った。

 清志郎は、思わず顔を上げる。驚きと不安がいっしょになったような表情が浮かんでいる。


「いいのかよ、そんなに簡単に許しちまって?」


『ああ。大の男が土下座までしてるんだ。許さない手はないよ。いいから立ちな。渡の末裔』


 シオンは、自分の両手を清志郎のこめかみのあたりにかざして立つように促す。


「シオン、ありがとう。何て礼を言ったらいいのか……」


 清志郎は、うれしそうにシオンの手を取ろうとする。しかし、その手はシオンの両手をすり抜けていった。


『あたいには誰も触れられない。たとえ渡の末裔でもね。ただ、あんたの気持ちはしっかり伝わった。もう何とも思っちゃいないよ』


 シオンは、清志郎の顔を見て小さく笑う。

 清志郎は、ゆっくり立ち上がるとシオンの顔をジッと見つめた。


「でも、お前さっき泣いてたよな? 女を泣かせるなんて俺は男として最低だ」


『バ、バカなこと、お言いでないよ! あたいが泣くわけがないだろ!? そ、そうだ! しずくだ! 水のしずくが目に入ったんだよ! 男のくせに小さなこと気にするんじゃないよ!』


 慌てて目を逸らすシオンに、清志郎は小さく微笑む。


『何がおかしいんだい? 渡の末裔』


「いや、うれしくてな。お前とこんな風に話せるなんて思ってもみなかったから。なぜか、お前とは今日初めて会った気がしねえ。夢で声を聞いたからかもしれねえが、話をしていても違和感がねえんだ」


『そんなことあるわけないだろ? あたいの気を引こうったってそうはいかないよ』


 シオンは口を尖らせてつっけんどんな言い方をする。ただ、心の中では動揺を隠せずにいた。なぜなら、シオンも清志郎と同じことを感じていたから。


「シオン、一つ頼みがある。お前の頼みも聞くから、まずは俺の頼みを聞いてくれねえか?」


『あんたたちの言葉でギブ・アンド・テイクってヤツだね。あんたこそ、あたいの頼みを簡単に引き受けていいのかい? 後悔しても知らないよ……。で? あんたの頼みってのは何だい? 渡の末裔』


 どこかうれしそうに話すシオンに、清志郎はゆっくりと口を開く。


「その『渡の末裔』って呼び方、止めてくれねえか? 俺には『渡清志郎』って名前がある。俺のことは『清志郎』でいい。はみんなそう呼んでる。それが俺の頼みだ」


 いつの間にか、日付は変わっていた。

 辺りは、相変わらず白い雪が舞い冷たい風が吹いている。

 そんな中、シオンは、心が温かい何かに包まれたような気がした。それは、三百年以上の間、忘れていた、懐かしい感覚だった。



 つづく

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