第31話 世界の果て


 清志郎とシオンは、新宿からJR山手線に乗って池袋で下車した。

 迷路のような構内を通って池袋駅の象徴である梟の銅像いけふくろうの脇を抜けて東口へ出ると、駅前の歩道は、信号待ちをする、たくさんの人で溢れていた。


「清志郎……? どこへ行くんだい?」


 シオンが不安そうに尋ねたとき、歩行者信号が青に変わり人の波が一斉に動き出す。

 右手でシオンの左手をグイッと引き寄せると、清志郎は、自分の身体を盾にするようにシオンの前に出た。

 その瞬間、シオンは、清志郎の手の温もりが身体の隅々に行き渡っていく感覚を覚えた。心地良く、懐かしい感覚にほおのあたりが上気する。気恥ずかしさから、うつむいたまま手を引かれていく。


「さっき、遠くへ連れて行って欲しいって言ったよな?」


 横断歩道を渡り終えたところで、清志郎がポツリと言った。

 シオンは、我に返ったようにハッと顔をあげる。スタバの前で失態を演じたとき、そんなことを口にしたのを思い出した。

 あれは「すぐにその場から逃げ出したい」という意味であって「物理的に遠い場所へ行きたい」という意味ではない。

 しかし、シオンの口から発せられたのは、そんな気持ちとは裏腹な一言だった。


「ああ。遠くへ連れて行ってくれるのかい?」


 シオンは、清志郎の背中に視線をやりながら笑みを浮かべる。ちょっとした言葉を気に留めてくれていたのがうれしかったから。


「南極を見に行こうと思ってる」


「ナンキョク? 何だい、それは?」


 聞き慣れない言葉に、シオンは首を傾げる。


「世界の南の果てにある、太陽の光がほとんど届かない場所だ。平均気温はマイナス五十度ぐらいで、海も陸地も分厚い氷に覆われてる。涙や鼻水も凍るしバナナで釘が打てる」


「そんな場所があるのかい? 世界は広いんだね」


 シオンは、感心したように首を二度三度縦に振る。


「でも、そのナンキョクっていうのは、人が住める場所には思えないね。そんなところへ行って大丈夫なのかい? それに、かなり遠いみたいじゃないか? シンクロの時間が終わるまでに戻ってこられるのかい?」


「――そろそろ、大丈夫そうだな」


 清志郎は、人の流れが落ちついたのを確認して、つないだ手をスッと離した。


「あっ……」


 シオンの口から吐息のような声が漏れる。手の中から、大切な何かが逃げていったような気がした。


「江戸時代は、幕府が鎖国政策を進めていたから、南極の様子なんてわからねえよな? 今もそれほど話題に上がる場所じゃねえし。ここから南極へ行くには、二日は見ておかねえとダメだな」


「二日? それじゃあ、シンクロの時間内にたどり着けないよ」


 つないだ手が離れてしまったこともあり、シオンはどこか不機嫌そうな顔をする。


「言葉が足りなかったな。これから行くのは南極だ。あと十五分もすれば着く」


「偽物? 十五分? 東京にもナンキョクがあるってことかい?」


 眉をひそめて首を傾げるシオンに、清志郎はニヤリと笑う。


「そうだ。バナナで釘は打てねえが、お前に見せてえものはちゃんと揃ってる。南極の景色と宇宙そらだ……。なぁ、プラネタリウムって知ってるか?」


 そのとき、シオンは、偽物の南極の正体を理解する。

 清志郎とシオンは、今、プラネタリウムへ向かっている。そこでは、南極をテーマにしたプログラムが上映されている。

 長い前振りは、シオンにプラネタリウムへの興味を抱いてもらうための演出。清志郎なりにいろいろと考えたのだろう。


「ああ、知ってるよ。大塚愛の『プラネタリウム』は好きな曲だ。一度、行ってみたいと思ってたんだ」


 シオンは、高揚する気持ちを抑えながら淡々と答える。


「それなら良かった。十一時三十分のの予約も取れたしな」


「芝シート? 何だい、それは?」


「普通はイスに座って眺める星空を、寝そべった状態で見ることができる。カップルやファミリー向けの特別席ってところだ。リラックスできるし小さい声でなら話もできる。ダメ元で予約状況を確認したら一つだけ空いてた。タイミングよくキャンセルが出たみてえだ。俺たち、かなり運がいいのかもな。どうだ? それでいいか?」


「あ、ああ。構わないよ」


 シオンは、目を反らしてぶっきらぼうに答える。平静を装ってはいたが、胸中は穏やかではなかった。呼吸が苦しいのは、胸に付け慣れない下着を付けているせいではなかった。


★★


 上映開始のアナウンスとともに館内のライトが消え、プラネタリウムにの夜が訪れる。

 半球状のスクリーンに、雪に覆われた台地が映し出され、同時に、静かな音楽――気持ちをリラックスさせる効果があるヒーリング・ミュージックが流れ始める。


 映像が、雪に埋もれた森林に切り替ったとき、りんとした空気とさわやかなアロマの香りが漂う。

 視覚、聴覚、嗅覚への働き掛けにより、偽物とは思えない、リアルな南極大陸が再現された。


「すごい……。すごいよ」


 初めて目にする、想像を絶する光景にシオンは目を輝かせる。


「俺もこんな風に南極の風景を見るのは初めてだ。楽しみだな」


 隣に寝そべる清志郎が小声で言った。

 そのとき、シオンの目に映ったのは、少年のような無邪気な笑顔。

 胸がトクンと音を立てる。


「江戸の町は、結構星が見えるんじゃねえか? 東京みてえに空気が汚れてねえし灯りもそんなにねえだろ?」


「そ、そうだね。でも、あたいがいた頃は星を楽しむ習慣なんてなかった。幕府が天体や暦を研究し始めたのは、星の研究機関・天文方てんもんかたを設置してからだ。庶民が星を見るようになったのは、かなり後のことだ。

 あんたの言うとおり、東京は星なんかほとんど見えない。同じ世界なのにこんなに綺麗に星が見られる場所があるなんて驚きだよ」


 少しずつ変化して行く宇宙そらを見ながら、シオンはうっとりした表情を浮かべる。


「あっ! あれ、ペンギンとアザラシだろ? クジラもいるよ。氷の世界にもちゃんと生き物がいるんだ」


 シオンは、興奮した様子で天井のスクリーンを指差す。


「どんな環境でも生き物は存在する。過酷な環境を生き長らえるために自らを環境に適合した形に進化させてるんだ」


「進化か……。人は三百年経ってもほとんど変わらないね」


「過酷な環境に直面しねえとなかなか変わらねえのかもな。人には天敵もいねえし」


 清志郎の何気ない一言に、シオンの顔から笑みが消える。

 二人の間に沈黙が訪れる。


「どうかしたか?」


 清志郎が心配そうに声を掛けると、シオンは溜息をつく。


「少し考えちゃってね。火の神・ヒノカグツチのこと。あたいらしか気づいていないが、今、人は未曾有みぞうの危機に直面してる。この事実を知ったら人は進化できるかもしれない、なんて思ったんだ。もしそうなら、あたいは今の状況を説明して回るんだけどね……。あっ、あたいったら空気が読めてないよ。済まないね。忘れておくれ」


 熱く語る自分が場違いだと思ったのか、シオンは恥ずかしそうな顔をする。


「忘れねえよ」


 間髪を容れず、力のこもった声が聞こえた。同時に、清志郎の左手がシオンの右手を掴む。シオンの手に心地良い温もりが戻ってきた。

 シオンは、ゆっくりと視線を清志郎の方へ向ける。


「シオン、俺は自分が人の代表として選ばれたと思ってる。だから、この危機を乗り越えるために進化する。お前と意思の疎通ができたことやこうして触れることができたのも一つの進化だと思ってる。人は、ペンギンやアザラシと同じで絶滅なんかしやしねえ。俺とお前が力を合わせれば絶対に大丈夫だ」


 清志郎は、にこやかに、そして、力強く語った。

 シオンは、自分の身体が温かさを通り越して熱くなっているのを感じた。つながった右手が燃えるように熱い。


「な、なに熱くなってるんだい……! あんたのせいで南極の氷が解けちまうよ……」


「悪い。つい熱くなっちまった。俺の言ったことは忘れてくれ」


 少し照れた様子で、清志郎は、左手を解くような仕草をする――が、手は解けなかった。間髪を容れず、シオンの細い指が清志郎の指と指の間に絡まったから。


「悪くない……悪くなんかないよ……あんたの言葉……絶対に忘れないから」


 シオンの口から途切れ途切れの言葉が発せられた。それに呼応するかのように、小さな手にグッと力が入る。


 いつの間にか、満天の宇宙そらには、色鮮やかなオーロラが広がっていた。

 それは、日本からは見ることができない景色。ましてや、三百年の時間ときを隔てた二人がいっしょに見ることなど到底あり得ない景色。しかし、そんな景色を、二人は目の当たりにしている。


「綺麗だね」


「ああ、そうだな」


 そんな短い言葉のやり取りさえ、シオンには特別なものに思えた。ずっと大切にしていかなければならないものに思えた。

 そのとき、シオンの脳裏にある記憶――歌姫になる前の記憶が蘇ってきた。



 つづく

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