第32話 置屋のおきて


 大きな桜の木の下で、童歌わらべうたに合わせてお手玉をしていたカエデの手が止まった。

 色鮮やかなお手玉が、次々に地面に落ちていく。


「カエデちゃん?」


 突然の出来事に、隣で歌っていたシオンは、心配そうにカエデの顔を覗き込む。


「シオンちゃん……お江戸へ行っちゃうの?」


 足元のお手玉に視線を落として、カエデは寂しそうな目をする。

 シオンは、視線を逸らしてグッと唇を噛んだ。


「……あたい、芸子になるんだ」


 一呼吸間が空いて、シオンは、はっきりとした口調で告げた。

 眉毛のあたりで切り揃えた、おかっぱ頭の前髪が微かに揺れている。


 同い年の二人は、同じ長屋に住む幼馴染。物心ついた頃からいっしょで、かれこれ十年来の付き合いになる。


「おとうとおっかあが話しているのが聞こえたの。明日シオンちゃんがいなくなるって」


 カエデは、潤んだ瞳で桜の木を見上げた。ところどころ、つぼみほころび始めている。


「明日の朝、江戸からお迎えが来るんだ」


 シオンが言葉を発した瞬間、春を思わせるような、暖かな風が二人の身体を吹き抜けていく。


「シオンちゃんならなれるよ。立派な芸子さんに。だって、あんなに歌が上手で、こんなに可愛いいんだもん。次に会ったときは、お江戸の人気者になってるよ」


「次に会ったとき……。そうだね。がんばるよ」


 シオンは、憂いを帯びたような表情を浮かべる。カエデには二度と会えない気がしたから。


 シオンは、九人兄弟の長女で五人の妹と三人の弟がいる。家計はお世辞にも裕福と言えるものではなく、九人の子供を育てるのが困難な状況にあった。

 そんな中、シオンの両親のもとにある書状が届く。内容はシオンの歌声と容姿に目をつけた、江戸の置屋がシオンをもらい受けたいというもの。

 シオンにとっては「寝耳に水」だったが、両親にとっては「渡りに船」だった。


 話はすぐにまとまり、シオンは、芸子見習いとして江戸へ行くこととなった。

 良く言えば、スカウトのお眼鏡に適ったアイドル候補だが、実際は、家族の食い扶持ぶちを減らすため売り渡されたようなもの。

 そのことは、シオン自身もわかっていた。しかし、一切異論は唱えなかった。

 幼い弟や妹にひもじい思いをさせたくなかったから。弟や妹のためならどんなことでもする覚悟があったから。


 翌朝、シオンは生まれ育った家を後にする。十歳になる年の春のことだった。


★★


 シオンが連れて行かれた置屋には、たくさんの女性が囲われていた。

 年端もいかない子供から三十代の女性まで幅広い年齢層の者が五、六十人。

 シオン同様、売られてきた者がほとんどだったが、中には、行くところがなく自分からやって来た者も見受けられた。


 シオンのような、一人前に稼ぎが得られない見習いは、まとめて大部屋へ押し込まれる。外出はほとんど許されない、監禁に近い状態で、現代であれば、人権問題に発展するような状況だった。

 ただ、朝から晩まで稽古漬けの日々が続き心身ともにクタクタの状態だったことで、外出する気力などなく、三度の食事と眠る場所があればそれで満足だった。


 稽古の合間に垣間見た、江戸の街は、いつもたくさんの人で溢れ、華やかな様相を呈していた。自由に外出することが許さないシオンにとって、そこは、近くて遠い世界。自分には場違いの空間であるような気がした。


 置屋に来て半年が経った頃、シオンは、ある疑問を抱く。

 それは、仲間の芸子の中で姿を消した者が多くいたこと。総数こそ変わらないものの三分の一から四分の一が入れ替わっていた。

 夜の闇に紛れて逃亡を試みる者がいないわけではなかった。ただ、捕まるのは目に見えており、厳罰を科されるのが落ち。そもそも、ここへ連れて来られた者は、たとえ逃亡に成功したとしても、行く当てなどどこにもない。


 ある夜、周りが寝静まったのを見計らって、シオンは古参の仲間に自分の疑問をぶつけてみた。

 答えは、思いのほかあっさりと返って来た。


「芸子失格の烙印を押された娘は、遊郭へ送られて、死ぬまで遊女として客を取らされるんだ」


 三つ年上の彼女は、シオンの耳元で囁くように言った。

 ショッキングな内容ではあったが、驚きはなかった。想像していた通りの回答だったから。

 芸子としてモノになるかどうかわからない者を買い受け、数年間、タダ飯を食わせるのはリスクが大きい。ただ、若い女であれば、芸が金にならなくても身体は金になる。それは、現代においても言えることであり、アイドルとして評価されない者が同様の境遇に置かれることは、決して珍しいことではない。


 明日は我が身――そんな言葉がシオンの脳裏をよぎった。その夜は、まんじりともせず朝を迎えたのを憶えている。


★★★


 置屋に来てから二年が経った年の三月、シオンは芸子見習いから芸子に昇格する。

 十二歳という年齢もさることながら、二年という、短い期間で芸子に昇格するのは珍しいことで、例えるなら、中学課程の三年を一年で修了するようなものだった。


 そんなシオンに仲間内で良からぬ中傷が飛び交う。「可愛い顔して誰かれ構わず寝る女。誰より早く芸子になれた女。芸子より遊女がお似合いの女」。もちろんそれは事実無根。敗者の遠吠えでありねたみに他ならない。


 しかし、穿うがった見方をすれば、そんな中傷が飛び交ったのは、シオンが芸子として突出した存在ではなかったことの現れ。そのときのシオンには、周りが納得するような、非凡な資質や才能のたぐいは感じられなかった。言い換えれば、江戸一番の歌姫になるような兆しは皆無だった。


 いくら実力があっても、それが認められなければ世に出ることはない。それは、どんな世界でも同様であって今も昔も変わらない。歌唱力のあるストリートシンガーが駅前で細々と歌っていても、力のある誰かの目に留まらなければ、決してメジャーになることはない。

 シオンが置かれていたのも、まさにそんな危い状況だった。

 客の評判が悪くなれば見習いに逆戻りすることもある。そうなれば、遊郭へ送られることも十分に考えられる。


 そうならなかったのは、が訪れたから。

 ただ、皮肉なことに、それはシオンを過酷な運命へと導くものだった。


★★★★


 時折、暖かな風に乗って桜の花びらが舞う、隅田川沿いの道。散歩をするシオンの目に、たくさんの町人が平伏する姿が映った。前方から、馬に乗った武士が先導する、長い行列が近づいてくる。


「大名行列だね。どこのお殿様だい?」


 シオンは、群衆の中にいた、顔馴染みの商人に興味津々といった様子で問い掛ける。


「シオンちゃん、まいど! あれは南城家なんじょうけだよ。当主の南城なんじょう忠興ただおき様が久しぶりに江戸に見えたんだ。何でも隅田川沿いのお屋敷が完成してそのお披露目があるらしい。外様大名なのにすごいよね。西の方では『陰の幕府』なんて呼ばれてるそうだよ。実は、おいらの店のお得意様なんだ」


「あれが、南城家なんだ……。こんなにたくさんの人が集まってる理由がわかったよ」


 沿道には、数百メートルに亘って何重にも人垣ができている。ざっと見積もっても千人は下らない。このあたりの住人以外に、わざわざ足を運んだ者もいるようで、シオンが知っている顔もところどころ見受けられた。



 つづく

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