愛のかたち(2)
極彩色であるはずの童話の世界に、ぱっくりと開いた大きな穴。時空が断裂したかのような漆黒の虚空は、以前セレスティーヌとサミュエルが訪れたときと同じ場所にあった。
しかしセレスティーヌは息を呑む。二度目の世界、まったく同じ姿だと一体誰が決めただろう。
空虚の穴は肥大化していた。セレスティーヌが最初に見たときよりも、その面積は明らかに広がっている。思わず両手で口許を押さえた。
「傷口が拡大して……!?」
「大一番だ、セレス」
サミュエルは口の端に薄く笑みを浮かべていた。引っ張りあげるような口角のあげかたを普段の彼はしない。今回のケースが普段とは違うことの表れ、かもしれない。
「この本を救うのは修復士じゃない。この本を誰よりも……愛した、きみだ」
愛。
その言葉はなんて非力なんだろう。セレスティーヌはなんて無力なんだろう。本を直すことはできても、治すことはできない。本を治せる人でも、治すことが難しい。それなのに、セレスティーヌにこそできると言う。
愛は武器にはなりえない。それでも、セレスティーヌが唯一持っているものが、知っているものが、愛だというのなら。
「――はい」
セレスティーヌの澄んだ瞳に、迷いはなかった。
愛らしい鈴の音が、今は物悲しく聴こえる。ちりん、ちりん――と、首もとに繋がれたそれが空気を震わせる。眠りについているのだろうか、丸まって虚空の前にうずくまるコグマがいる。彼は動かないのに、鈴の音だけは鳴り響いていた。
「コグマさん」
鈴の音が止む。
ゆっくりと、その小さな躯体が動く。両足を伸ばして顔を露にする。口を開けば獣の牙があり、つぶらな瞳は値踏みするようにじろじろとこちらを見やる。セレスティーヌの姿を認めた案内人は、滑稽に口を歪めた。
「キミはだあれ?」
「ッ!」
確かめるというよりも純朴な問いを投げられる。セレスティーヌが想定の埒外に置いていた、もっとも残酷なケースだ。これは悲しみか、それとも苦しみか。痛みなのか憎しみなのか。
一冊の本が一人の読者を覚えていると、何故慢心していたのだろう。一度修復に来ているとはいえ、何故セレスティーヌとサミュエルを覚えていると前提していただろう。相手にとって些事であれば、きれいさっぱり忘れられてしまうのに。
「だあれ?」
もう一度。コグマの、少年のようにあどけない声が、セレスティーヌの鼓膜を突き刺す。穏やかな声だった。何よりも胸を貫いた。本にとって一人の読者にどんな価値があるか、如実に示す現実だった。
それでも、セレスティーヌは涙を見せなかった。傲らなかった。自己中心的な悲嘆に暮れる暇はない。泣くよりも今は笑うときだ。
「はじめまして、コグマさん」
セレスティーヌは笑って言った。
「私はセレスティーヌ・リシュリュー。あなたの……『虹色のメルヒェン』のファンです」
膝を柔らかく折って一礼。スカートの裾をつまんで会釈するなんて、ずっと昔のことに思える。久しぶりにとった姿勢は爪先が不安定に揺れそうになったが、セレスティーヌは優美な笑みを崩さず、その場で踏みとどまった。
コグマの眼光が鋭くなる前兆は見られない。セレスティーヌは続ける。
そう、これは一世一代の大舞台。セレスティーヌ・リシュリューが人生で獲得した
「今日はお礼を言いに来ました。私はあなたたちに助けられたから」
コグマは何も答えない。生きているのか、止まっているのか、心配になるくらいだ。だがセレスティーヌは止まらない。上がった幕を身勝手に下ろしたら、きっとその時点で『虹色のメルヒェン』は消滅する。
「小さいとき、私は家が窮屈でなりませんでした。決まったことを習って、怒られるのが怖くて、顔も知らない相手と結婚することだけが約束されていて。あのままだったら私はきっと、リシュリュー家の言うとおりになって人生を終えていたでしょう」
セレスティーヌは真っ直ぐ、微笑んで、コグマに告げる。
「そんな私の人生を変えてくれたのは、あなたたちなんですよ」
八歳のとき、セレスティーヌがはじめて手に取った本。童話『虹色のメルヒェン』。イラストが中心のそれは言葉も平易だし文字もそこまで多くない。児童向け、幼児向けに親が語り聞かせる一冊にも挙げられるかもしれない。かつてコグマが叫んだように、大人がこぞって読むものではない。
「あなたたちに会えたから、私は世界が広いことを知りました。何にでもなれることを知りました。コグマさん、あなたが新しい世界に手を差し伸べてくれたから……八歳だった私は今、ここにいるんです」
あなたに出会えなかったら、私は
「私の人生を虹色にしてくれて、ありがとう」
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