愛のかたち(3)
「……ボクの
「え?」
白い牙の間から見えたものを空虚だと感じた、だが干渉に浸る暇などなかった。だんまりを決め込んでいたコグマは微笑むセレスティーヌをよそにたったひとつの名前を呼ぶ。クロエ――『虹色のメルヒェン』でコグマが連れ出した少女のことだ。
「待っていたんだ、キミが戻ってくるのを。キミがこの世界を救ってくれるのを。あのときのように険しい山の先にある虹に願いをかけるのを」
セレスティーヌをクロエと勘違いしているのか、コグマは切々と訴える。
「けれど、ああ、キミは戻ってきてはくれなかったね。大人になったキミはボクのことなんて忘れて、もうここにやって来ることはなかった。世界は寂れ、妖精は消え、虹がかかることはない」
絶望さ、とコグマは吐き捨てた。戻ってきたと言ってみせたり戻らなかったと言ったり、彼は幻想を見ているのか。事実を混濁しているのか。童話の世界で何を「真実」と呼ぶかなんて、雲を掴むような話だ。
「ボクらの望みは変わらない。キミに以前も言っただろう? 忘れられない世界、永遠に読み継がれる本。それにはたくさんの読者が必要なんだよ」
「! サミュさん、コグマさんは……」
「間違いない、覚えてる」
サミュエルは眼鏡の奥で目を細めた。眉間には険しさが刻まれている。唇を結び、思案するように指先で口許を撫でた。
「問題はあのときと同じだ。コグマさんが納得する望みを受け入れてもらうこと」
「でもコグマさんは」
「そう、ボクの望みは多くの読者。それを否定したのは他ならないキミたちだろう?」
知らんぷりはやめたらしく、試すような口調でコグマが二人を煽る。動物は笑えない、だから牙のある口が奇怪に歪むだけ。しかし人間と同じように情緒があるのなら、それは嘲笑にも見てとれた。
「違う」
サミュエルの言葉は決して強いものではない。大声でもなく語気も荒くない。静かな水面に落とした一滴のように、それは世界を変えていく。
「コグマさんが本当に望んでいることは、もっと正確に言葉にできる」
「本当に望んでいること、だって?」
小馬鹿にしたコグマにもサミュエルは怯まない。うん、と首肯するあたりはやはり締まらない。逆にセレスティーヌも落ち着いて考えることができた。
「そう。そしてその願いなら、セレスが叶えてあげられる」
「私が……」
「うん、きっとね」
セレスティーヌにならできること。修復士のサミュエルにはできないこと。コグマを、本を救えること。
思い出して、とサミュエルが囁く。繋がれた手の温度を思い出した。一人ではない。少しの高鳴りと安堵が、セレスティーヌの思考を少しずつ加速させていく。
「たくさんの読者がほしいってのは、目的のための手段に過ぎないんだよ。きみの願いはもっと深いところに、大切に抱え込まれている」
待っていたんだ、キミが戻ってくるのを。キミがこの世界を救ってくれるのを。ああ、けれど、キミは戻ってこなかった――
悲哀に彩られたあの言葉は、嘘で片付けていいものではない。
「クロエさんとの再会、でしょうか」
「もちろん一番はね。でもきっとコグマさんは、クロエのような人間に会いたいんだ」
コグマが何かアクションを起こす素振りはない。サミュエルは構わず話した。
「さっき叫んでいたじゃないか。忘れられない世界、永遠に読み継がれる本。コグマさんは忘れられたくないんだ」
「でも私、前にお話をしたとき……!」
「その意味を与えるのはきみさ」
サミュエルは柔らかく微笑んだ。とくりという心臓の音が脳内に反響する。そんな気がした。
「きみが、あの子の
「無理だッ」
サミュエルの言葉にコグマが強く反駁する。先程まで様子見を決め込んでいたのが、ここに来て激しい抵抗を見せる。余裕のない応酬は核心に迫りつつある証だ。この小さな童話が抱える深い闇、そこに情け容赦なく脚を踏み入れようとしている。良しとしないのは当然の摂理だ。
「クロエはもう戻ってこない! ボクたちを忘れて見捨ててしまったんだ。ただの読者がボクのクロエを語るな……!」
「じゃあどうして泣いてるんだい?」
「泣いてない!」
獣が涙を流すこともない。たとえここが童話の、フィクションの世界であったとしても。そんな奇跡は、奇跡が起こらない限り実現しない。
「いや、泣いてるよ。セレスならそれを救える。きみのぽっかり開いた穴に、ひとつの答えを出せる」
きみの、たったひとつ、ぼくも彼も持っていない
セレスティーヌは瞑目し、ゆっくりと瞼をあげた。目の前には苦しげに唸り続ける獣になりかけた
貴族であることも、図書館で働くことも、何の価値ももたない。ここにいるのはただのセレスティーヌ。でも、ただのセレスティーヌが持っているものがある。与えられるものがある。
八歳からずっと、本の世界に魅せられ続けたセレスティーヌだからこそできることがあった。
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