愛のかたち(4)

「……私……」


 低いヒールの靴を、一歩前へ。目の前に広がるのは吸い込まれてしまいそうな悲しい空虚。ブラックホールにも似たその穴を、一匹のコグマが虚勢でもって守っている。

 強がりだ。読書をすれば登場人物の気持ちがわかるなんて横暴な理論だ。セレスティーヌはセレスティーヌが感じたように本を読む。言葉にされなければ完全な理解など及ばない。でも言葉にしてくれたのなら、その思いは受け止められる。


「たくさんの読者を連れてくることはできません。この本が素敵よと言うことはできますけど、それにも限度があります。そしてきっとあなたは満足してくれない」

「やめろ、来るな……ボクに近づくな、偽善者!」

「偽善者でも構いません」


 コグマはひきつった悲鳴をあげながら、その場で身をよじった。その場からもう逃げられないのかもしれない。

 セレスティーヌはもう一歩踏み出す。もうすぐコグマに手が届く。


「でも、私は誰よりも……誰よりも『虹色のメルヒェンあなたたち』を素敵だと思ったし、私の人生を変えてくれた。八歳の私も十八歳の私も変わりません。あなたたちを愛して、決して忘れない」

「嘘だ、妄言だ、でっち上げだ!」


 虚構フィクションがセレスティーヌを否定する。せめてもの抵抗なのか、コグマが一段と大きく咆哮した。びりびりと肌を焼くような振動。それすらもセレスティーヌには孤独なサインに思えた。

 助けて。誰かに認めてほしい。ボクたちを忘れないで。いつか必ず、この世界に戻ってきて――

 そう叫んでいるのか、真偽はコグマにしかわからない。けれどこの胸を締め付けるような孤独は、灰色の世界を見聞きしたセレスティーヌ自身が感じたことだ。震える身体を押し隠しながら強がるコグマを、見なかったことはもうできない。


 コグマに両手を伸ばす。膝を折り、目線の高さを合わせる。抱き締めようとすれば反射のようにコグマの爪がセレスティーヌを引っ掻いた。手の甲に引っ掻き傷が克明に残り、じわじわと赤が滲む。セレスティーヌとサミュエル、コグマを除けば唯一の有彩色。


「……たとえあなたが私を拒んでも、私はあなたを拒まないわ」


 ひりつく痛みを無視してセレスティーヌは手を伸ばす。表情が見えないはずのコグマが明らかに動揺した。身体がびくりと跳ねて、がむしゃらに腕を振り回す。


「嫌だ、嫌だ嫌だ! 嘘だッ、そんな口先でボクらを騙せると」

「ええ、だから証明してみせます」


 セレスティーヌはその手を、コグマの身体に回した。暴れる爪が腕を、髪を、首を傷つける。けれどそれがなんだというのだろう。セレスティーヌは抱き締めた両腕を絶対に放すまいと決めていた。


「――あなたたちは忘れられない。あなたたちは、独りじゃないわ」


 ぶわり、と肌が粟立った。それはセレスティーヌが本能的に感じ取ったものなのか。恐怖ではない。ただ、偉大な何かに触れているような、芸術作品を前にしたときの感動のような、明確な言葉にはできない何かを知った。


「……クロ、エ。ボクの……」


 悲しい慟哭が、灰色の世界を貫いた。コグマが一際大きく吼える。怒りではない、これは哀愁だ。失ったものと取り戻せないものを嘆いて、きっと彼は


 クロエ、クロエとセレスティーヌの腕のなかで彼は繰り返した。妖精が舞い踊る世界にやってきた好奇心旺盛な少女。喋るコグマの誘いにも快く応じ、ともに虹の向こう側を目指した少女。セレスティーヌもクロエの背中でその旅路を追いかけた。泣き、笑い、感動した。本が大好きになった。

 虹の向こう側で願いを唱えたクロエは、元の世界に帰ってしまう。その後の話は書かれていない。きっと元の世界で幸せに暮らしているのだろう、とセレスティーヌは想像していた。


「クロエはきっと、あなたを忘れていないわ。だって読み手の私が十年経っても忘れなかったんですもの、冒険者だった彼女が忘れるはずない」


 きっとあなたとの旅を胸に刻んで、今を一生懸命生きているわ。

 コグマの咆哮とともに世界に光が差す。灰色の雲間から天使の梯子が降りてくる。小さな光が少しずつ、美しい羽音とともに増えていく。妖精が戻ってきたのだ。


 そして灰色を打ち破るように、大きな虹が山の向こうへと架かった。


「……修復完了だ」


 セレスティーヌの勇姿を見守っていたサミュエルが困ったように呟く。


「本当に、修復士なんて才能だけでやっていけない。セレスがこの本を深く知り、愛していたから、この本は救われた」


 ぼくは非力なものだと、サミュエルは自嘲気味に言った。その言葉はコグマの慟哭の前にかき消される。


「本も、人も、変われるんだ」


 鮮やかな色を取り戻していく世界からの退去が始まる。白い光に包まれていくサミュエルとセレスティーヌ。コグマを抱き締めるために抜け出した彼女の手の感覚はまだサミュエルに残っている。自分よりも小さくて細いのに、サミュエルよりもずっとあたたかい。不思議なものだ。


「……本、読もうかな」


 元の世界に戻ったら、やりたいことがサミュエルにできた。忘れないこと、愛すること。すべてを抱えていたら、本につけこまれてしまいそうだけど。

 愛がなければ本を治せない。サミュエルは確信した。


「少なくともぼくは、そういう治し方が素敵だなって思ったよ」


 最後の時までコグマを抱き締めていたセレスティーヌが伝えたかった温もりは、きっと彼にも伝わるだろう。サミュエルの手が未だにあたたかいように。


【九冊目:修復完了】

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