リシュリュー家のご令嬢(2)
「今日は一段とそわそわしてるね」
寝ぼけ眼を擦りながらサミュエルにそう言われたときには、セレスティーヌはもう取り繕うことも諦めていた。
というのも、朝から凡ミスの連続だったからだ。朝一番の仕事である修復リストの作成はタイトルを誤字脱字してしまい、サミュエルに渡す本は優先順位を示す付箋の色を間違えた。おかげで今日中に治す本の存在に気づいたのは昼休み明けで、セレスティーヌはサミュエルに頭を下げるしかなかった。
「すみません……」
「別に怒ってるわけじゃないよ」
それはセレスティーヌにもわかる。サミュエルが怒っている姿など、逆に想像ができない。『リュミエール・タイムズ』の一件以降、サミュエルはいつもの調子に戻った。けれど修復に対する姿勢はより真摯に、より前向きになった……と信じたい。
サミュエルはセレスティーヌが間違えた付箋を指先でいじりながら答える。
「何か気になることでも?」
「あの、確かにあるんですけど、仕事には関係ないので」
「きみの気が削がれてるじゃないか。別に雑談したって怒られないからさ、言ってみてよ」
こうやって話を促すというのも、能動的で前向きな変化と言えるのかもしれない。表情は相変わらず食えない猫のようだが、セレスティーヌは安心感を覚えた。本来ならば「仕事中に私語は厳禁です」と忠告したいが、これ以上仕事でのミスを重ねたくない思いが勝った。
「今日、アルベールさんがお休みじゃないですか」
「そうだっけ」
「そうですよ」
本の修復以外は情報に無頓着な男らしい言葉だった。セレスティーヌは嘆息しつつ続ける。
「本日、結婚式だそうです」
「……へえ」
「それで、アルベールさんがどんな方と結婚するのか、気になっていて」
間違いではないはずだ。しかし、自分の言い回しにセレスティーヌは罪悪感を覚えた。「私が本来嫁ぐはずだった家の新婦が見てみたい」なんて、今のセレスティーヌには言えないのだ。リュミエール皇国国立図書館で働いている彼女は、ただのセレスティーヌだから。
サミュエルに隠し事をしている罪の意識から視線を落としたセレスティーヌだが、彼はそうは思わなかったようだ。
「気になるんだ」
「え、っ」
セレスティーヌは絶句する。その温度差に。思わず顔をあげてしまったのは、サミュエルの声がいつになく冷たく感じたからだ。見ればいつも蕩けているはずの目尻が上がっている。やや尖りつつある唇からもわかる。
サミュエルは不機嫌だ。
「あの、サミュさん。私、何か気を害することを」
「セレス。きみはあいつの助手じゃないわけだし、別に気にしなくてもいいんじゃない? なんで気になるの」
「何故、と言われましても」
ここまで問い詰めるサミュエルも珍しい。セレスティーヌは気が動転していた。
ずい、とサミュエルが身を乗り出す。いつもの大きくない机で、目の前の男が顔を近づけてきたのだ。セレスティーヌは間近に迫った男の瞳に困惑する一方だった。こちらの一挙一動を逃すまいという、直情的な眼差し。
「ねえ」
「わ、わわわわわたしはっ!」
更に男が迫ろうと――このまま近づいたら唇があやまって触れてしまいそうに感じたから、セレスティーヌは顔を真っ赤にして立ち上がった。手を握ったわけでもない。けれどこの無遠慮な距離はないだろう。ばくばくと音を立てる心臓を落ち着かせようと、セレスティーヌは上気した頬のままでまくしたてる。
「レディに安易に近づかないでくださいっ! アルベールさんは貴族だから、私が貴族の結婚式が気になっていて、それだけです!」
「貴族なら誰でもいいわけ?」
「ええもう、そう捉えていただいても構いませんっ」
言い切ったとき、セレスティーヌは失敗したと思った。貴族という身分なら誰でもいいだなんて、いかにその場しのぎの言い訳とはいえ悪手がすぎた。自分の心とは対極にある言葉を己が言ってしまったことが、よりにもよってサミュエル相手に言ってしまったことが、セレスティーヌをいっそう苦しめた。
顔を一気に蒼白に染めてサミュエルを見ると、彼の顔はぞっとするほどすべての感情が抜け落ちていた。普段は柔和さの象徴である銀のふわふわした髪でさえ、今は薄い刃のような鋭い色合いに見えてしまう。
「……ぼくはさ。セレスは身分とか、そういうのにとらわれないひとだと思ってたんだけど」
「ちが……」
弁明しようとして、セレスティーヌは言葉を続けられなかった。だってそうだろう。結局セレスティーヌは逃げ出してもなお、貴族という身分に縛られている。嘘つきのまま生きている。目の前の信頼できる上司にすら、素性を明らかにしないままだ。
「……すみません」
「いいよ、別に」
その「いいよ」は、何を意味していたのだろう。薄い唇が紡いだ言葉に、セレスティーヌは眩暈を覚えた。
「セレス、今日はもういいや。帰って結婚式とやらでも見てくれば?」
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