リシュリュー家のご令嬢(3)

 セレスティーヌは早退してしまった。結局あのままサミュエルは口すらきこうとせず、しかし怒鳴り散らすでもなく、ただただ無言で仕事にあたっていた。セレスティーヌの言葉など聞く耳も持たない。「なきもの」にされたことに耐えかねた彼女は、その日勤務していた副館長に「具合が悪い」と適当なことをうそぶいて早引きしてきたのだ。

 逃げだ、これもまた逃げたに過ぎない。どこまでいっても自分は何かから逃げてばかりだと、セレスティーヌは己を責める。


 何か楽になるわけでもなかったけれど、駆け出したい気分だった。華やいだ石畳をヒールで叩きつけたら、どんなにか自由になれるだろう。軽快な音がこつん、こつんと繰り返して、胸を爽やかにしてくれるだろうか。

 でも、セレスティーヌにはできなかった。


「……ッ」


 ヒールで歩くときは大股になってはなりません。駆け足などもってのほか。リシュリュー家の娘たる人間がはしたない振る舞いをしてはいけません――

 セレスティーヌは家を飛び出したって、破っていいはずのルールさえ破れない。


「おめでとうございます、ラファイエット卿!」


 祝福の声が耳に入ってきたタイミングは、最悪と言うほかなかった。ラファイエット家の喜びの声、無論アルベール・ラファイエットの結婚式に決まっている。確か「最高級のホテルを貸しきってやるんですよ」と彼は言っていたが。

 ホテルでの式典は終わり、両家の門出を祝うためにブーケトスが行われようとしていた。記念写真も合わせて撮っている。どうやら屋外でのイベントのようだ。セレスティーヌは気まずさを覚えつつも、その場を立ち去ることもできず、遠巻きにそれを眺めることになった。


「マリアンナ様、こちらに!」

「二人の船出に幸あれ!」


 マリアンナ、と呼ばれた娘がアルベールの花嫁だろう。セレスティーヌの視線はそちらに向いた。ずっと知りたかった、自分の身代わり。


 可憐さがまず印象的な娘だった。娘、というがきっと歳はセレスティーヌと変わらない。十代のうちに嫁ぐのが貴族令嬢の一般常識だ。化粧をしているし遠くからしか見られないため子細な顔立ちはわからない。それでも、口許に微笑を浮かべて花束を大切そうに抱える花嫁は瑞々しい若い新芽のように思えた。

 ああ、まさに理想的な貴族の娘だと、自嘲したくなった己をセレスティーヌは呪う。マリアンナは貞淑そうな少女だと、控えめな花嫁姿を見てわかったからだ。手の振り方ひとつとってもしなやかに、たおやかに。それが徹底されている。精巧で繊細な人形みたいに愛着が増し、大切に扱いたいと思わせる振る舞い方を心得ている。人形だ、人形と何ら変わらない――それが、他人には美徳だと言われるけれど。


「皆さん! 我が花嫁が皆さんに、幸せをプレゼントして差し上げますよ!」


 セレスティーヌの耳にもはっきりと届いた音は、アルベールの大音声だ。図書館で散々聞いた彼の声も、今日は一段と華やかに聞こえる。滲み出る幸福感が声色を変えているのだろうか。

 白いタキシード姿のアルベールに催促されて(タキシードがこんなに似合わない男だとは思わなかった)、マリアンナが幸せのブーケを空高く放る。きゃあっ、と甲高い悲鳴があがり、女性たちが思い思いに手を伸ばす。たったひとつの幸福の象徴。それに群がる手は与えられたエサを奪い合うヒナに見えた。セレスティーヌのもとには決して与えられない。


(彼女は、これを幸せと感じているのね)


 ブーケは前の方に陣取っていた、やや年増な女性に贈られた。行き遅れたのかすでに結ばれたのか。それでも周囲からは祝福の拍手が惜しみなく届けられる。笑いあうアルベールとマリアンナ。

 セレスティーヌは、自分がある姿を幸福と捉えられなかった。


 他人の幸せな大舞台に失意さえ覚えたセレスティーヌは、沈んだ気持ちのまま自宅へと戻る。自分しか持っていないカギで扉を開き、迎えのいない我が家に明かりを点す。貴族の家ではおおよそ考えられない境遇だ、妙齢の女性が一人暮らしするなどと。


(私は……私は、自分で選んだのだわ。選ばなかったことを後悔しても、選んだことは後悔しない)


 迷うことが増えていた。サミュエルとの関係がこじれ、アルベールには皮肉を叩かれているような。貴族であるということが、こんなにもセレスティーヌを苦しめる。捨てたも同然の家が、結局セレスティーヌを掴んで離さないのだ。

 こういうときは、どうすればいいのだろうか。


「……そうだわ」


 セレスティーヌは思い出した。そして「支度」を始めた。キッチンでお湯を沸かし、マグカップに挽かれたコーヒー豆を準備。フィルターを通して生まれる黒色の海に映る自分の顔は情けなくて、今にも泣きそうに見えた。涙なんて出てこないのに。

 コーヒーを用意したら、小さな机に移動する。書き物や読み物をするときに使う机だ。一人暮らしだからサイズは小さめだが。そこにマグカップを置き、セレスティーヌは机上に並べられた背表紙を眺め一冊を引き抜いた。


 無題の冊子。そこにセレスティーヌの初心が詰まっている。すっかり時間が経って日に焼けてしまったページを、セレスティーヌはゆっくりとめくった。

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