リシュリュー家のご令嬢(4)

 日記だった。あるいは読書感想文にも類するかもしれない。本に触れ、外の世界に憧れた幼い心のセレスティーヌが綴った言葉たち。どの図書館にも収められていない、唯一無二の「本」だ。

 家を飛び出し半年経つが、この日記に手をかけることは半年で一度もなかった。振り返りたいほど苦しくなることはなかったから。涙を流し、家に縛られ、自由への渇望を書き留めたこの日記をめくることは、セレスティーヌが苦しんでいることと同義だった。


『午前……発声、オペラ、社交ダンス。午後……テーブルマナー、社交界のレクチャー』


 毎日のレッスンは端的に書かれていく。最初の方は詳しく内容が書かれていたけれど、段々と振り返ることすら苦痛になってきたのだろう。

 ページをめくる。


『レディ・アンティークの鑑定譚』


 本のタイトルで始まったページは、先程のレッスンとは大違いの文章量だった。作者、ジャンル、あらすじ、どこが魅力的だったか、気に入った台詞は何か、印象的なシーンはどこか……その本にのめり込み、深く読んだセレスティーヌの感性がそこに詰め込まれている。

 純粋な熱意が、時を経てセレスティーヌの胸を打つ。今も忘れてなどいない。どうしてセレスティーヌはあの家を飛び出したのか。どうしてリシュリュー家ではダメだったのか。どうして貴族ではいけなかったのか。


(私は、本を愛しているから)


 本に囲まれた世界で働きたい。読むだけでは満足できない。そう思ったのは、セレスティーヌがに他ならない。

 貴族の抑圧された生活があったから。貴族の権力闘争に嫌気が差したから。けれどセレスティーヌが本を読めたのは、貴族でたくさんの本を買えたからだ。


(私が選べたのは、私が貴族に生まれたからなのかもしれないわ。なら、私は)


 セレスティーヌ・リシュリューの名前にもう貴族の価値がないとしても、あるいは貴族としての属性を付与されても。セレスティーヌはリシュリューの姓を、それこそ結婚しなければ手放せないし、それは恥じ入ることではない。十八歳のセレスティーヌが選びとった未来だからだ。

 コーヒーを飲み干し、無題の名著を閉じる。セレスティーヌの思いは決まっていた。


 ***


 お話があります、と切り出したときのサミュエルの表情はよくわからない。一日経って昨日のような鋭利さは見られないものの、食えない顔をしている。怒っているのかもしれないし、不愉快なままかもしれない。それでもセレスティーヌはサミュエルに朝一番で声をかけた。


「…………」


 お決まりの作業席に座って肘をつくサミュエルは、人の話を聞くにしては不遜な態度に見える。朝日を浴びる銀の綿毛は変わらずにきらきらと輝いている。


「昨日はすみませんでした」


 開口一番、セレスティーヌは静かに謝罪した。図書館がそもそもお喋りに適していないこともあるが、足音ばかりが反響する。声も小さくなるのはしかし、それだけではあるまい。セレスティーヌが頭を下げると、サミュエルは予想通り無気力に首を振った。


「その話だったら、昨日もういいって言ったじゃないか」

「私はサミュさんに隠していたことがあります」


 昨日だけではありません、と言えばわずかにサミュエルの眉が動く。値踏みするような眼がセレスティーヌに向けられた。それでも彼女は怯まない。伝えることが贖罪であり誠意であると、彼女は決意したのだ。

 深呼吸をひとつ。明かさずとも生きていけるかもしれない秘密を明かす、それは自己満足と笑う人もいるかもしれない。だがセレスティーヌには必要なことだった。


 青い瞳は真っ直ぐサミュエルを見つめる。喉の奥はカラカラに乾いていた。


「私の名前はセレスティーヌ・リシュリュー。貴族の……リシュリュー家の次女です」


 少しの沈黙。サミュエルの顔色を伺うけれども、表情筋に一切の変化が見られない。セレスティーヌは続けることにした。


「私は本来、ここで働くことはできないはずで……本当ならアルベールさんのいるラファイエット家に嫁ぐことになっていました。けれど私はそれが嫌で、家を飛び出したんです」

「家出したのは結婚したくないからってこと?」


 サミュエルが口を挟んだ。セレスティーヌは身体を強張らせたが、彼の声を聞いてすぐに落ち着きを取り戻す。未だに読み取れない顔をしているが、声色に鋭さは感じられなかったから。


「それが決定打ですが、私は本に関わる仕事がしたかったんです」


 一度吐き出してしまえば、言葉はするすると出てきた。


「貴族としてのレッスンに窮屈さを感じていた私の唯一の楽しみが本でした。私の知らない世界がたくさんある、夢と希望に満ちた無限大の物語。私はそれに憧れて、いつか本に囲まれて仕事をしたいと思うようになったんです」

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