リシュリュー家のご令嬢(5)

「貴族ってことは、隠さないといけなかったの?」

「ええ、もし私がリシュリュー家の人間だとわかって家に連れ戻されでもしたら……」

「そうじゃなくて」


 サミュエルの身体がまた迫る。セレスティーヌは心臓を大きく跳ねた心地がした。昨日と同じ、だけど違う。他人のプライベートエリアに無遠慮に踏み込んでくるサミュエルではなく、真剣な顔をした男がいた。セレスティーヌは思わず息をのむ。垂れ目が宿す真摯な光に目を奪われた。


「ぼくにも隠さないといけなかったの?」


 ぼくはきみの素性を言いふらすような男だと、きみはそう思っていた?

 近い距離。吐息が唇にかかってしまうほど。体温の上昇を自覚する。けれどそれは甘ったるい空気ではない。サミュエルはセレスティーヌに対して使わなかった言葉だけれど、つまり、彼はこう言いたいのだ。


 自分を信用してはくれなかったのか、と。


「……すみません。そうですね、結果として私は、サミュさんを心から信じられていなかった」

「今日話してくれたのは気まぐれ?」

「いいえ。私なりのけじめです」


 セレスティーヌははやる心臓を掴むように胸元をぎゅっと握りしめる。そうでもしないとこの距離から逃げ出してしまいそうだった。真剣なサミュエルの瞳から逃れることは許されない。


「私が恥じることなく、私として働いていくために、必要だと感じたのです」

「……そっか」


 サミュエルが貴族だからとセレスティーヌを差し出す人間でないことは、セレスティーヌがよく知っている。それでも騙し騙しやってきたのは、怖かっただけなのだ。貴族である自分に蓋をして、平凡なふりをしていたかっただけ。どんなに嫌っても生まれからは逃れられない。

 大切なのはそのあとなのだと、サミュエルが教えてくれた。


「過去を引きずるサミュさんを見たとき、衝撃的だったんです。サミュさんでも弱い部分があったんだって」

「人間だからね」

「でもサミュさんは、過去を受け止めて進むことに決めた。それってまるで、本を治すのに似ているなって」


 セレスティーヌは日記を開いていた。自由に焦がれていた自分、それもまた、彼女にとっての過去だ。過去が、経歴のすべてがマイナスに働くとは限らない。それも含めて受け止めて……しかし、未来を変えることはできる。本と違って。


「私は、私であるためにサミュさんにはすべてを伝えたいと思ったんです」


 至近距離のサミュエルの眼差しが、ふっと、柔らかく溶けた。セレスティーヌの知っている、チーズをとろかしたようなあたたかい光だ。その「日常」の象徴のような瞳にセレスティーヌは安堵していた。


「ごめんセレス。きみにきつく当たってしまったね」

「それは……私のミスが」

「八つ当たりだ。なんだかよくわからないんだよ」


 サミュエルの指先がセレスティーヌの手の甲に滑り込む。指と指を絡めとるように重ねていく上司にセレスティーヌは戸惑う。明らかに無遠慮な距離の詰め方と意味が異なる。体温の上昇は耳をも朱に染めた。


「きみがあの修復士の話ばかりしてるとさ、なんか気分が良くなくて。だってそうだろ、きみはぼくの助手なのにさ。アルベールさんアルベールさんと言うものだから、意地悪したくなったみたい」

「……あの、それって」

「教えてほしいんだセレス。ぼくは愛を知らない」


 恋人のようにきつく繋がれた指先に、ぐっと力を込められる。逃れることはできなかった。やる気のないはずの瞳が、ふわふわした銀の綿毛が、じりじりと炎をまとっているかのよう。


「ぼくのきみへのこの感情は、果たして愛と呼べるのだろうか」


 喰われると、セレスティーヌは思った。それほどの情念を感じた。男の顔をしていた。愛を知らないと言った彼が白い牙を覗かせていた。

 知っている。きっとセレスティーヌはサミュエルに答えを教えてあげられる。しかしそれは傲慢ではないか? たくさん読んできた小説と同じだと落としこんでいいものか? そして……セレスティーヌはサミュエルに、どう返事をすればいいのか。

 目の前がぐるぐると渦を巻く。繋がれた手の感覚は熱さに溶け合って、どちらの体温かもわからない。


「あ、の」


 サミュエルが更に距離を詰めようとする。セレスティーヌは羞恥と恐怖で目を閉じてしまった。俯く彼女はもう、身体が凍りついて身動きができない。

 落ちてきた音は、耳元にあった。


「……それともこれは」

「修復士サミュエル! 修復士サミュエルはいらっしゃいますか?」


 水を差す雑音か救いの声か。サミュエルを探す声は図書館の司書のものだ。ちっと舌打ちする音がセレスティーヌの鼓膜を揺らす。しゅるりと絡ませた指がほどかれた。

 サミュエルは普段の気だるげな様子で席に座り直す。炎は静かに消え去っていた。


「ぼくはここだけど」

「ああ、こちらにいましたか」


 定位置にいたサミュエルを見つけると、司書は一冊の本を二人の前に置く。その装丁に見覚えのあるセレスティーヌは瞬時に顔を蒼白に変えた。サミュエルも知っているはずだ。口がまっすぐに結ばれる。


「この本は、まさか」

「以前修復頂いた本が、また汚れてしまったようで。修復をお願いできますか?」


 真っ黒になった表紙、四隅の独特の装飾。それはセレスティーヌが決して忘れることのない一冊――『虹色のメルヒェン』だった。


【九冊目:再修復開始】

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