九冊目『虹色のメルヒェン』
愛のかたち(1)
――知っている。この闇を知っている。青く蕩けた視界。混濁した意識。極彩色の地獄。何度手を伸ばしても、その出口に光が差すことはなく。
ああ、そもそも、ここはどこなのだろう? 虹の向こうに見たはずの景色はどこに行ったのだろう? 妖精が舞い踊り、迷いこんだ少女は艶めいた靴を鳴らし、笑いが何度もリフレインするはずなのに。
一切はモノトーン。灰色の雲は鉛に化ける。包み込む風は突き刺すような棘となり、己の肌を傷つけていく。いつしか妖精たちはいなくなり、世界を救ってくれるはずの少女は姿を消していた。
何故。どうして。招いたはずの奇跡はもうこの手に残っていない。
絶望だ。この感情を知っている。胸にぽっかりと空いた穴は、少女にしか埋められない。だけどこの穴を開けたのは、他ならぬ少女なのだ。
どうして。キミはボクたちを救ってくれるのではなかったのか。
悲哀の咆哮が轟く。大きく裂けた穴蔵に、その叫びは虚しく呑み込まれていった。
***
「一度修復した本をもう一度治すのは、とっても難しいことなんだ」
見覚えのある景色を見回しながら、サミュエルはそう述べた。辺りは灰色で濃淡がつけられている。白黒印刷よりも哀愁の漂う「色づかい」で描かれたここは、心象風景とも言えるのかもしれない。
黒いフレームの眼鏡は少しずり下がっている。決まらないところもいつもの彼だった。その顔は、いくぶん強張っているようだが。
「セレスは壊れた本の背表紙を直したりするでしょ? そのとき、本は元通りになる?」
「確かに、テープやのりが残ってしまいますけど……」
今までの修復は、傷痕など一切残っていなかったではないか。そう返そうとしたセレスティーヌをサミュエルはやんわりと制する。言いたいことはわかる、とその顔が物語っていた。
「前にこの本を治したとき、無理矢理縫合したでしょ? だから同じ方法で治そうとすれば、傷口はまた開いてしまう。何度も同じ場所を治せば、その部分は傷んでいく」
だから二度目の修復は、違うアプローチで治していかねばならない。サミュエルはそう結論づけた。
「……つまり、今回は無理矢理ではなく、本が納得して修復を受け入れることが必要だということですね」
「そういうこと」
二度目の修復が難しいと言われる所以がここにある。無理矢理傷を塞ぐのは得策とは言えない。アルベールのように、自分の信念を貫くことで有無を言わさず修復してしまうこともあるが、最終的には修復不能になってしまうリスクが大きいのだ。サミュエルがマスキングテープで強制的に本を治すのは、最終手段とも言える。
だからこそ、今回は一冊の本の「命」がかかっている。二度目の修復、同じように無理矢理傷を塞げば、近い将来修復不能になるだろう。この本が――『虹色のメルヒェン』が、完全に黒に塗り潰される。
「コグマさんが修復を受け入れてくれるかどうか、ですよね」
「うん」
「私たちの言葉を、聞いてくれるでしょうか」
「前と同じことをしたら無理だろうね」
サミュエルはやはり、飄々と返事をするだけだ。足が止まることはない。二度目の世界だ、行き先も決まっている。
セレスティーヌは困ったように俯いた。どうすればあのコグマが修復を納得してくれるのか。望みはわかっている。「もっと多くの人に読まれたい」、けれどそれはセレスティーヌ一人では叶えられない。それでは本質的な解決にはならないとサミュエルは言った。
「受け入れてもらうこと、なんだよ。そのためには別のカードが必要だ」
「別のカード、ですか」
「ねえセレス。やっぱりぼくはきみの言葉が一番いいと思うんだけど」
冷たい風が吹き抜けるなか、歩を進める。サミュエルはセレスティーヌの手を絡めるように握った。冷えきった指先に熱が灯る。
「私、ですか」
「うん。でもただきみの思いを伝えるだけじゃだめだ。コグマくんには生きる意味を教えてあげてほしい」
「生きる、意味……?」
抽象的な言葉にセレスは首を傾げる。サミュエルは穏やかな声色でそっと告げた。
「読者の数に囚われているコグマくんに、意味を。それはきっと、一番の読者であるきみにしかできないと思うんだ」
「でも、私は……前に思いを伝えました。ですが」
一蹴された。たった一人の読者に何の価値があると、否定された。セレスティーヌは唇を噛み締める。
「それでもだ」
サミュエルの言葉が強くなった。
「コグマくんを救うのは、きみの心だよ」
「……どうして、そこまで」
「ぼくが救われたから」
サミュエルが振り返る。灰色の世界に、鮮やかな微笑がセレスティーヌの胸を貫いた。
「きみに大切なことを教えられたからだよ、セレス」
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