八冊目『      』

リシュリュー家のご令嬢(1)

 貴族の名門、リシュリュー家。その次女。セレスティーヌ・リシュリューの社会的なステータスを述べるなら、それを無視することはできないだろう。


 生まれたときから物的な不足は存在しなかった。欲しいと言えばなんでも与えられた。フォンダンショコラも、ステーキも、グランドピアノも、お付きのメイドも。セレスティーヌが「欲しい」と言えばなんでも両親は与えてくれた。

 精神的な抑圧はあった。物を与えられる代償なのだろうか、セレスティーヌの毎日は窮屈に思えた。レッスン、レッスン、少し休んでまたレッスン。学んだことをちゃんとできないと両親に怒られた。「お前はリシュリュー家の娘なのだから、これくらいできないと」とは子供の頃よく言われたことだ。両親に怒られたくなかったから、セレスティーヌは必死に頑張った。


 考えることができるようになって、本の世界に触れて、セレスティーヌは家での生活があまりに狭いと知った。そして、彼女が一番欲しいものが「自由」であることも知った。両親に与えられるばかりではない。自分で仕事を選んで、自分が選んだ人と恋をして、自分で作り上げた生活をしたい。

 それだけは、両親は与えてくれなかった。たくさんの施しを差し出す代わりに、家の駒としてのセレスティーヌを求めていた。


 貴族であることは、セレスティーヌにとって抑圧だったのだ。


 ***


「……う、ん」


 朝が来る。家を飛び出してから、数えることもしなくなった朝が。図書館アルバイトのセレスティーヌとしての朝が、今日も無事にやってくる。

 季節はいつの間にか秋めいていた。働きだしてもう半年になるのだと、セレスティーヌは思い至る。家事はつつがなくこなせるようになったし、毎月の給金の遣り繰りも多少は勝手がわかってきたというものだ。寝起きで跳ねた金色の毛先を整えつつ、仕事に向けての支度を始めていく。今ではすっかり毎日のルーティーンだ。


 サミュエルに散々言われた甘々の玉子焼きも、「ゲロ」がつかない程度には改善した。それでもたまに卵の殻が入ってしまうのはご愛嬌である。

 バタートーストに甘い玉子焼き、それにミルク。手作りというには簡素なセレスティーヌの朝食だが、忙しい朝にそんな凝ったことはやっていられない。お弁当にサンドイッチと玉子焼きを詰める作業もすっかり馴染んだ。


「今日は午前中に修復リストを作成してサミュさんにお渡し。それから……」


 トーストをかじりながらスケジュールを再確認。可愛らしいピンク色の手帳には毎日の流れが箇条書きで書かれていた。

 予定をなぞっていたセレスティーヌの指先が、ある一行で止まる。手帳の文字もわずかに震えていた。


「…………」


 結婚披露宴。

 今日は修復士アルベール・ラファイエットの結婚式が執り行われる日だったのである。


 その話を聞いたのは本当につい最近で、セレスティーヌにとっては寝耳に水だったのを覚えている。もちろん騎士の名家ラファイエットも貴族だから、勢力拡大のための結婚は免れないだろう。そもそもアルベールは今年で三十を迎えるというから遅すぎるくらいなのだが(どうやら騎士としての才に恵まれなかったがために後回しにされていたらしい)。

 ラファイエットの人間が結婚するとなれば、セレスティーヌはその事実を無視できなかった。セレスティーヌが嫁ぐはずだった家……その「後釜」が決まったということなのだから。


(私はずっと、貴族であることを隠して仕事をしていていいのかしら)


 セレスティーヌはそう悩むことが増えていた。貴族の窮屈さから逃れたくて始めたアルバイトも、うまいこと半年やれている。セレスティーヌの素性が明るみになることは今のところないし、この先もきっとなんとかやれるだろう。アルベールのようなイレギュラーがない限り、図書館に貴族がやってくることなんてないに等しいのだから。


 けれど。

 アルベールが結婚をするということは、誰かがセレスティーヌの代わりに政略結婚の駒になったということだ。恋愛結婚だとは考えにくい。だって貴族の結婚だ。

 たとえアルベールの本来の婚約者がセレスティーヌではなかったとしても、彼女はその胸に刺さった棘を無視することができない。


(私はいつまで、こんな日々を)


 欲しかった自由。リシュリューの家にとらわれない生活。ただのセレスティーヌとして働ける環境。欲しいものは自分で手に入れた。そこに後悔はない、家を飛び出してでも欲しかったものだ。

 ただ、「貴族である素性を隠している」という罪悪感が、貴族を誇る彼を見るたびに沸いてくる。結局は隠せても消せやしない、セレスティーヌ・リシュリューという名前の意味を。


(アルベールさんは、誰と結婚するのでしょう)


 あまりに急な話で、詳細は聞けていなかった。結婚披露宴がある日、つまり今日は仕事だったし、参列することもないと思っていた。しかし貴族の結婚式が大々的に行われないはずがない。その姿を遠巻きにでも見て、彼と結ばれる人間を知らなくてはならない。セレスティーヌには漠然とした義務感が生まれていた。

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