六冊目『リュミエール・タイムズ 国歴353年秋霜の月紅玉の日』
サミュエルという事象(1)
修復士サミュエルが倒れたという話を聞いたとき、セレスティーヌは己の至らなさを呪った。
彼の不調は『ラヴィアンローズ』の際に見受けられたはずだ。本の世界での体調不良……というよりは、まるで病のように胸を苦しげに抑え込んでいた。サミュエルは「そういうものだから」と誤魔化されてしまったが、あのとき踏み込むべきだったのだ。
サミュエルと体調不良、というものが今一つ繋がらない。普段の彼の勤務姿勢を見ている人間ならばきっとそう思うだろう。だから図書館の人間も「別に大したことはないだろう、どうせ仕事をやりたくないから休んだに決まっている」などと小言を垂れている始末。修復士サミュエルが決して好意的に見られているわけではないことは、セレスティーヌも感づいていた。
「どうやらね、本の障気にあてられてしまったようなんですよ」
なんてことないように修復士アルベール・ラファイエットは言う。
「修復士にも個人差がありまして、体質や本との親和性も関係がある……と、聞いていますが。私は幸運にも耐性のある選ばれし修復士なので、彼の苦しみは知識としてしか理解できないのです」
こんなときまで自分のステータスを強調する生粋のお貴族様にセレスティーヌは声をあらげたい思いだったが、今はサミュエルの安否が最優先だ。「図書館でサミュエルが倒れたらしい」という曖昧な情報を精査すべく、セレスティーヌはアルベールを問いただしていく。
「修復士の力には副作用ですとか、そういったものがあるのでしょうか?」
「副作用、とは少し違いますね。感情移入のしすぎというか……なんといったかな、霊媒体質? それに近いらしいのですが」
「霊媒?」
幽霊というものをセレスティーヌは信じたくない。信じている、ではなく信じたくない、だ。怖いものが苦手なので恐怖心を煽るような物事には消極的になってしまう。だが様々な本を読んでいるせいか、そういった知識も弁えている。
幽霊を引き寄せてしまう体質、だったと記憶している。身体を乗っ取られたり幽霊と会話ができたりと、その内訳は様々なようだ。
「つまり、サミュさんは本の世界に取り込まれていると?」
「本の世界が牙を剥く、とも言うそうです」
アルベールは安い装丁の新書をぱらぱらとめくりながら答える。タイトルは『ゴースト・シンドローム』――だいぶ偏った思想の著者による一冊だったとセレスティーヌは記憶している。
「登場人物に首を絞められたり、言葉による暴力を受けたり。あるいは悲愴な告白に同調しすぎてメンタルをやられたり。本の嘆きや叫びが修復士に傷として刻まれる……そうです」
本の一節をなぞっているのだろう。たどたどしい言葉でアルベールはそう告げる。
本の世界にサミュエルが傷つけられる。感情移入すればするほどに傷が深く刻まれていくというのだ。彼が散々見届けるべきだと言い聞かせていたのを思い出す。過度な干渉や感情移入が自身を壊すことを経験しているがゆえの発言だったのかもしれない。
セレスティーヌは歯噛みした。助手として何も力になれていない自分が悔しかった。だが立ち止まるつもりもない。更にアルベールに問いを重ねる。
「どうすればサミュさんは治るのでしょうか」
「治療法? えーっと……」
本の世界を害悪のように綴るその本に答えがないことをセレスティーヌは知っていた。
「アルベールさんは耐性があるとおっしゃってましたね。それは干渉しすぎないためですか?」
「まあ、私の本分は修復であって、本の愚痴聞き係ではありませんしね」
アルベールのスタンスを如実に表す言葉だった。そしてそれがサミュエルとの決定的な違いとも。
「サミュさんは本に寄り添いすぎたから、本につけこまれたとでも……?」
自問する。しかしじっとしていることもできない。本を治そうとするサミュエルが本に傷つけられるなんて、セレスティーヌは絶対に許さない。性格はアレでも修復士としての信念は、少なくとも目の前の修復士よりはずっと尊敬できるものだと信じている。
「あとは、本人と関係性の高い本も親和性が高すぎて良くないようです。まあ、私の場合は気高い公平な心があるぶん、家系図も――」
アルベールの言葉はそこではたと止まった。
「……あの家系図は、何故治せなかったのでしょう」
ラファイエット家系図の表紙にリュカ・ラファイエットが戻ることはついになかった。中身も真っ黒く塗り潰された一冊を前に、アルベールは愕然とした表情をしていたのを覚えている。
彼がそのことを引きずり、鞄につねに治せなかった家系図を持ち歩いているらしいこともセレスティーヌは噂で聞いていた。
アルベール・ラファイエットは苦悩している。能天気で残酷に見えて、心のどこかに大切な「失敗」を引きずり回している。ならばその人間性に、セレスティーヌは少しだけ期待したい。修復士のことは修復士に診てもらうのが一番だ。
「アルベールさん。これから一緒にサミュさんのもとに行きましょう。あなたが今の私には必要です」
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