サミュエルという事象(2)
サミュエルは図書館から歩いて十五分ほどの距離にある、小さな診療所に運ばれたという。リュミエール皇国の首都であるこの大都市ならば、当然もっと大きな病院が存在する。というのに近場の小さなクリニックに搬送されたということは、何か事情があるのだろう。セレスティーヌはそう考えた。
「といっても、薬でどうこうできる症状じゃないからなあ。気休めに鎮静剤打つ程度しかねえよ」
間延びした口調からは緊張感を微塵も汲み取ることができない。よれよれの白衣をまとった白髪のおじいちゃん先生は、修復士の対応に慣れている様子だった。話が早く通じるからこの診療所に連れてこられたのかと、セレスティーヌは納得した。得られたのは「修復士の体調不良に医療では手を打てない」ということだが。
サミュエルは薄いマットレスのベッドに寝かされていた。顔には脂汗が浮かび、眉は苦しげに歪んでいる。のらりくらりとした彼しか見ていなかったセレスティーヌにとって、余裕のない彼の表情は不安をかきたてるものだった。
「サミュさん……」
「首をかきむしった跡があります」
痛ましい姿に口許を抑えたセレスティーヌに対し、アルベールは冷静に症状を分析している。感情に左右されないという彼の短所であり、長所だ。
言われてみれば確かに、サミュエルの喉仏周辺には縦に引っ掻いた跡がいくつか残されている。赤い軌跡がセレスティーヌの胸を抉った。
「しかし身体に異常はないわけですね?」
「そうそう。修復士特有の、精神だけ『向こう』に飛ばされてる状態さね」
「彼は本の世界に行ったきり、戻っていないということですか……」
アルベールはしたり顔で頷いた。
「となると、彼が本の世界から帰ってくるしかない」
「そうさな。普段の坊っちゃんならまあ、一日で戻ってくるんだがなあ。今回はちょっと相手が悪い」
「相手が、って……お医者様はサミュさんがどこにいるか、ご存知なのですか?」
セレスティーヌが食い付く。サミュエルがどの本の世界に引きずられ、苦しんでいるのか。『ラヴィアンローズ』のときは踏み込めなかった一歩を、今は踏み越えなければならないと彼女は感じていた。
そんな緊迫した決意のセレスティーヌとは対照的に、飄々とした様子でドクターは言う。
「ああ。それさ」
「これは」
老ドクターが指差したのは、眠るサミュエルの枕元に置かれた新聞だ。だいぶ昔に発行されたものらしく、外側は日に焼けて紙が黄ばんでいる。
『リュミエール・タイムズ 国歴353年秋霜の月紅玉の日』――発行日は今から十年近く前になっている。
「新聞の中に、サミュさんが?」
「んだな」
「つまりこの新聞が、彼にとってゆかりのある一冊なのですね」
セレスティーヌはアルベールの話を思い出す。自分にとって親和性や関係性の高いものはより深く精神を傷つけやすい。つまりこの新聞は、サミュエルという個人に密接に関わったものなのだ。
有り体に言えば、サミュエルの過去と深く繋がっている。
「十年前の秋霜の月紅玉の日。何かありましたっけ」
アルベールが言うのとほぼ同時に新聞をぱらぱらとめくり始めた。セレスティーヌは当時八歳。物心つき始めた頃合いの記憶は正直曖昧だ。
「大規模な事件よりも、彼の出生に関わる地域の記事などを調べるべきでしょうか。マドモワゼル、彼はどこの出身で?」
「それは……その」
知らない。知らないのだ。セレスティーヌはサミュエルのことを何も知らない。
サミュエルは奇妙な人間だった。銀の綿毛みたいな髪をきらきらと輝かせて、窓際で眠る猫のような男。気だるげで眠そうで、やる気があるのかわからない。けれど本の一冊一冊に真摯に向き合い、前向きに本を治そうとしている。修復士サミュエルのことなら、セレスティーヌは雄弁に語ることができる。
けれど、サミュエルの素性を知るものは誰もない。プライベートというものが、彼には欠落していた。
「まさか、助手ともあろうあなたが知らないというのですか」
「……すみません」
アルベールの口調は咎めると言うよりも呆れているようだった。サミュエルの隣で仕事をしているのに何も知らないのかと。そんな得体の知れない男と何故仕事ができるのかと。貴族という、誇らしい身分であり血統を明確にする彼らしい発想だろう。
「坊っちゃんは特殊なんだわ」
思わぬ助け船は、黄ばんだ新聞紙を凝視しているドクターからだった。
「坊っちゃんの過去は隠されてる。皇国が修復士に任命したときから、こいつはそれ以前の過去を消された」
「ドクター。何故あなたがそれを」
「そこも含めてワケありの医者なんだよ、俺はさ」
ドクターはアルベールの追及に対して明確な答えを口にするつもりはないようだ。何かを匂わせる発言をしつつも、はっきりとした答えは示さない。きっとそれは、サミュエルの抹消された過去が関わっているのだろう。
「いずれにせよ、潜ってみりゃあわかる。坊っちゃんが何者で、何に苦しめられてるかはな。きっとあんたらにはその権利がある」
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