虹色のメルヒェン(3)
『虹色のメルヒェン』と出会ったのは、セレスティーヌが八歳のとき。
リシュリュー家の娘として、適齢期になれば嫁ぐことが定められた箱庭。まだ幼女にすぎなかったセレスティーヌには嫁ぐことの意味までは理解できていなかったが、目の前のお稽古をこなすことが絶対なのだと、それだけは理解していた。
ピアノ、社交ダンス、テニス、テーブルマナー。ああそうだ、バイオリンも追加すると言っていた。
毎日がお稽古の繰り返し。上手くなればお母様が褒めてくれる。だから続けなきゃ。だからやらなくちゃ――セレスティーヌの心は、だんだんと自分を追いつめるようになっていた。
『虹色のメルヒェン』が贈られたのは、八歳の誕生日。確か親戚が買い与えてくれたのだと思う。
親戚の叔母様が「セレスティーヌちゃんももう読み書きができるんですものね」と微笑みを浮かべてプレゼントしてくれたのだ。
虹色。雨上がりの空にきらめく七色、もしくは八色の橋のこと。
メルヒェン。童話。子供向けの夢に溢れた物語。
端的に言って、めくるめくファンタジーの世界にセレスティーヌは魅了された。見たこともない魔法の世界。喋るコグマに羽根の生えた妖精、あの空の向こうにあるはずの虹を求めて旅をする物語――
「虹色の、メルヒェン……それが、今回修復する本なのですか」
セレスティーヌの声は震えていた。先程までの情けない上擦りは消えていた。代わりに胸を支配していくのは、鉛のように重たい感情。
「そう。童話ってぼく読まないからさ。でも修復するにはお話を理解してないと難航しちゃうしね」
童話に限らず、サミュエルはあまり本を読まない。そんな彼が本のカウンセラーとも言える修復士と何故勤めているのか、疑問の余地はあるが。今のセレスティーヌには考える余裕のないことだった。
何故、本は傷つくのか。物理的な傷ではない、破損ではない。人間と同じように様々な経験、感情にあてられて、心が荒んでしまうのだという。サミュエルはそう語っていた。
夢を与えてくれた、セレスティーヌに新しい世界を見せてくれたその童話は。今、苦しいと叫びをあげている。
「治しましょう。私が知る限りのことでしたら、何でもお教えします。ですから」
治しましょう、とセレスティーヌは繰り返した。それをサミュエルは怪訝そうに眺める。口の端についていたマヨネーズを舌で舐めとり、緊張感のない様子でとろんとした眼を向ける。
「まあ、言われなくてもやるけどさ」
「ええ、ええ。やりましょう、すぐにでも!」
「いやきみ、さっきまでお昼休み終わってからって」
「そんな悠長なことは言ってられません! さあ!」
結局、サミュエルが昼休みを死守する結果になるのだが、昼休憩の間をセレスティーヌはすべて下準備にあてた。
修復士の助手であるセレスティーヌ自身に、本を治す力はない。直すことはできても、心を修復することはできないのだ。それはカウンセリング能力云々の話ではなく、残酷な言い方をすれば才能の問題だ。
でもセレスティーヌにはできることがあった。サミュエルと過ごした三ヵ月で学んだこと。
本の修復とは、本の「思い」を受け止めること。だから本に詳しくなければ、寄り添うことができない。
セレスティーヌにはそれができる。知識がある。八歳の出会いから十年積み上げてきた、数多の本の思い出が。読書の記録と記憶が。
何より、『虹色のメルヒェン』にかける思いだけは、誰にも負けるつもりはなかったのだ。
「……やけに気合入ってるよね、きみ」
午後の始業。指定メーカーの液体のりとマスキングテープ。今日は七色のテープを選んだ。セレスティーヌの趣味だ。
サミュエルは普段以上に躍起になっているセレスティーヌを訝しむ様子だが、それ以上追及するのはやめたようだ。嘆息するように呼吸をひとつして、作業机の上に一冊の童話を置く。
「――ッ」
それを「童話」と知っているのは、きっとセレスティーヌだけだ。
真っ黒に侵された装丁。精神的に病んでしまった本は、その装丁を黒く侵される。タイトルを判別することもままならない、そこに描かれているはずの虹も見られない。それでもサミュエルがこの本を『虹色のメルヒェン』だと断言したのは……彼の修復士としての能力だと言うのだが。
でもセレスティーヌにもわかった。表紙が汚れて見えなくても伝わってくる。汚れた四隅に僅かに残る、独特の装丁が辿る。あの金縁は、あのデザインは、間違いなく『虹色のメルヒェン』であると。
「助けましょう、この本を」
セレスティーヌは自分に言い聞かせるように、強く言った。
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