虹色のメルヒェン(4)
絶望した。
「そんな、どうして……」
セレスティーヌはわなわなと唇を震わせた。本の世界に出入りする際は、修復士と接していなければならない。そのために不慣れにも繋いだ左手を、振り払うことすら忘れていた。
真っ黒な雲は分厚く、まるでこの世界に太陽など存在しないと主張しているかのよう。喋るコグマと飛び回る妖精が住んでいるはずのうららかな世界はどこにもなかった。曇天と生物の気配さえ感じない、寂れて荒廃した大地。険しい山脈の向こうにある虹の架け橋を探すはずの物語は、その意義を見失ったように存在している。
涙が出そうだった。
「ッ……」
でも、泣けなかった。泣いてはいけないと思った。
セレスティーヌはこの本を救いに来たのだ、治しに来たのだ。けっして同情して涙を流し、絶望するためではない。きつく唇を噛みしめて、熱くなる目頭が冷めていくのを待った。
「セレス。やっぱり、今日のきみはおかしいね」
「そんなことは」
「物語に呑まれてはいけないよ。きみは修復士の助手なんだ。この手を握る意味を、履き違えてはいけない」
はい、と答えた声は掠れていた。
この童話が傷ついてしまった原因は、果たしてどこにあるのか? サミュエルいわく、歪みの原因となる部分は他とは違う「何か」を感じるらしい。第六感とも言える感覚は修復士特有のものであり、セレスティーヌには共有できない感覚だ。だからセレスティーヌは、サミュエルの感覚を信じて同道するしかない。
「セレス。きみにとってこの童話は、大切なものなんだね」
セレスティーヌは無言で首肯する。そうか、とサミュエルは陽だまりにも似た笑顔をとろかせて、くしゃりと笑っていった。猫のような男。けれど場違いで気だるげなその佇まいが、何よりもセレスティーヌに安息を与えてくれる。
「じゃあ教えてほしい。きみにとってこの童話は、どんなに魅力的なものなのかを」
セレスティーヌは話した。喉が渇くのも忘れて、唇が紡ぐ物語を信じてひたすらに語った。いかにこの童話が美しく、童心をくすぐり、そして勇気を与えてくれるのかを。
主人公は十歳の少女。ティーパーティーをしていた庭先で、喋るコグマと出会う。コグマに驚きながらも、少女はコグマに連れられて不思議な世界へと旅することになる。
コグマによって導かれた異世界は、妖精の飛び回る美しい世界だった。のどかな自然風景が懐かしさを誘う、平和な世界。きらきらと半透明の羽根を輝かせて飛ぶ妖精たちは、少女にとある伝説を教える。すなわち、あの山脈の向こうには虹の架け橋があるのだと。そして、虹の架け橋を渡った者は、幸せになることができるのだと。
童話の不思議を、セレスティーヌは「何故」とは思わなかった。ただその世界に魅了された。美しいと思った。ただただ、のめりこむようにして読んだ。
ピアノも、テーブルマナーも、そこには義務が何もない。ただ、見たこともない虹の架け橋に憧れて、少女は旅を続けていく。その自由さに、新しいことを追いかけている姿に、セレスティーヌはきっと魅せられたのだ。
「私が、こうして図書館で働くことができるのは……その本のおかげなんです」
セレスティーヌがリシュリュー家の次女であることは、公にはしていない。アルバイトの面接の際に身分を明かしてはいるものの、事情が事情であるため、面接官と館長以外は知らないはずだ。色々と面倒なことになるから、とセレスティーヌは言い含めている。
本来であれば、貴族の娘がアルバイトをするなどはしたないと詰られるところだ。
「そうでなければきっと、私は本を知らないままで……知らない誰かと結婚して、一生を終えていたでしょうから」
「なるほどね」
サミュエルの返事は葉っぱよりも軽いものだった。本当にわかっているのか不安になる返事である。しかしセレスティーヌはそれを咎めることはしなかった。サミュエルは他人に同調したり、人の話を熱心に聞くような青年ではない、残念ながら。
「きみの話を聞く限り、この世界に導くためのカギは、喋るコグマさんだと思うんだけど」
「? そうですね、妖精はたくさんいましたけど、喋るコグマは冒頭に出てきただけで……」
今はそのコグマどころか、妖精すら見かけない。以前潜った伝記の幽霊屋敷もおどろおどろしい雰囲気であったが、こちらは世界中が悲しみに包まれているかのようだ。
「この世界への入口。もしそれがあるのなら、コグマさんはそこで待ってると思うんだよね」
「それは、何故……」
「コグマさんは自分の役目を全うしたいだけだから」
その言葉の意図を飲み込めないまま、セレスティーヌはサミュエルに従う。この世界への出入り口は、童話では明記されていない。気づけば異世界に来ていたのだ。世界を往復するすべは、案内人であるコグマしか知らない。
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