虹色のメルヒェン(5)

 曇天の下を、サミュエルと二人歩く。虹色の世界とは想像もつかない光景を前にセレスティーヌは不安だったが、段々とその不安は薄れていった。行き先を告げることはしないが、サミュエルの足取りに迷いはない。彼の中で行き先はもう決まっているのだろう。その根拠のない歩みと繋がれた手に、安堵したのかもしれない。


「コグマっていうのは、穴蔵に眠っているものじゃないのかい」


 おもむろにサミュエルが呟く。セレスティーヌはわずかに首を傾げた。


「一般的な熊ならば、まあ……図鑑で見たものは地中や洞窟で冬眠すると聞きましたが」

「穴っていうのは、何も洞窟に限らない。人の心にぽっかりと空いた穴だって、巣食うには十分すぎる広さだと思うんだ」


 前を行くふわふわした銀髪が、揺れるのをやめた。サミュエルが足を止めたのだと理解する。

 のんびりとした横顔に混じる、わずかな緊張。恐怖ではなくその色は、真剣みを帯びた表情であることをセレスティーヌは理解した。彼は失敗を恐れない。ただ、その話に耳を傾け、思いを受け容れることに注力するのだから。


 空虚な穴があった。

 いつかSF小説の挿絵で見た、ブラックホールのように思えた。強大な吸引力は無い。ただ目の前に忽然と現れ、真っ黒く塗り潰された虚無の空間がある。人間なんて塵芥程度の大きさにしか見えない、あまりにも大きすぎる「穴」だ。


「これが、この物語が歪んだ原因だと……?」

「そうだろうね」


 サミュエルは訳もない様に言う。


「きみはこの穴をどうしたい? 守りたいのか、治したいのか」


 サミュエルが問いを投げたのは、大きな穴の足元――穴を守るかのように後足だけで直立する、ファンシーなコグマだった。首につけた金の鈴はコグマのトレードマークだ。ちりん、とどこか哀愁を誘う音がセレスティーヌの鼓膜を揺らした。


「ボクは待っていたんだ」


 人語を話すコグマに今更驚いたりはしない。「ボクと一緒に虹を探しにいかないかい?」そういって、彼はセレスティーヌを冒険の旅へ連れて行ったのだから。


「ボクたちを忘れない存在を。ボクたちを見捨てない存在を」


 コグマの奥で渦巻く漆黒の虚が、きらりと小さな光を放った。


「童話というのは短命だ。物心つかないうちに繰り返し読み聞かせて、大きくなったらすっかり忘れる。小説は大人になっても読み返すけど、ボクたちは違う。幼い頃の幻……それが、ボクたちには耐えられない」

「違います。それは、違います」


 セレスティーヌは声を張っていた。コグマのつぶらな瞳が不穏な光を宿す。


「……違うって、何が?」

「私……私を、本の世界に連れてきてくれたのはあなたです。あなたなんです、コグマさん。私はあなたを、あなたたちを忘れたりしない。今の私を作った、大切な」

「キミ一人に覚えられたところで意味がないんだ!」


 コグマが咆哮する。いかに愛くるしくデフォルメされた姿でも、生えた牙は誤魔化せない。凶暴に尖った歯を隠すこともせず、コグマは刹那セレスティーヌの眼前まで来ていた。一瞬のことに理解がおいつかない。

 サミュエルの手は離れていた。


「ボクたちはね、キミ一人のために生まれた存在じゃないんだ。もっと読まれたい、覚えていてもらいたい。子供のときは散々読み聞かせられたくせに、大人になったら忘れていく。ボクたちはなかったことにされる。それが苦痛でならないんだ!」


 キミ一人に覚えられたところで、ボクたちの知名度は変わらないんだよ。

 ――セレスティーヌの瞳から、はらりと涙が落ちた。


「でもねそれは、物語のさだめじゃない?」


 今にもその大きな口の中に頭が入るかと思った。そんな折、コグマの後ろからサミュエルの声がする。

 サミュエルの右手には、物語に入る際に使った七色のマスキングテープがある。まるでリボンのようにしゅるしゅると、コグマを取り囲んでいくのが見えた。


「なん……なんのつもりだお前!」

「何って、修復だけど」

「修復士は本の望みを聞くのが役目なんだろう!? だったら早くボクらを忘れないように――」

「それは違うよ、コグマさん」


 サミュエルは穏やかに、しかし断言した。


「修復士がするのは、本の思いを受け止めること。願いを叶える便利屋じゃない」

「くそ……ボクは認めないぞ、こんな、願いを叶えるまではッ」


 マスキングテープを使った修復は、いわば「荒療治」であるとサミュエルから聞いていた。聞き分けの無い本を相手にしたときは、強硬手段でもって本を治すのだと。しかしそれは開いた傷口を無理矢理縫合するようなもので、本がまた、いつ傷口を開くとも知れない。できれば避けたい手段だと。

 しかしそれが修復士の限界だ。

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