サミュエルという事象(7)
「私の知っている修復士は、一冊一冊の本と真摯に向き合って……その思いをぎゅっと受け止めて、前に進める人間です。痛みも悲しみも喜びも二人の方が分かち合えるだろうと、聞き手を増やしてまで本の思いと向き合ってきた人間です! それをなんですか、たかだか語り手がいないくらいで修復を諦めるだなんて! サミュさん、あなたは修復士なんでしょう? 私にはない本を救う力を持っているんでしょう? あなたが諦めたら、この子は誰が助けてくれるんですか!?」
「……ッ」
サミュエルが苦しげに息を呑んだ。普段は穏やかな、緊張感の欠片もない顔が苦悶に歪む。『ラヴィアンローズ』で見た苦痛ともまた違う。彼の、人間としての苦悩だった。
「サミュさん、私に言ってくれましたよね。私には修復する力はないけれど、本を救える力があるって。その本を覚えている読者……それは、本にとっての救いになるのだと」
「すく、い」
『虹色のメルヒェン』で絶望したセレスティーヌに、サミュエルがかけてくれた言葉だ。だからセレスティーヌはここに、自分の意思で立っている。
「私が今、こうして、この場所にいるのは。修復する力を持たない、治せない私がここにいるのは。本の思いを……サミュさん、あなたと一緒に受け止めるためです」
「――――」
「だから」
セレスティーヌは、困惑するサミュエルの両手をそっと包んだ。冷えきった指先が彼の心理状態を物語っている。セレスティーヌはそこには一切触れずに、代わりに真正面からサミュエルを見た。
それから、微笑んだ。
「この子を治しましょう。一緒に」
目を逸らすことはしなかった。それは不誠実だから。目を逸らすことなんてできなかった。その瞬間、彼が壊れてしまいそうだったから。
果たして何秒、何十秒、こうやって見ていたのか。サミュエルの心は少しずつ融解し、再び笑えるようになる様を、セレスティーヌはじっと見守っていた。
諦念に彩られていた瞳は、気だるげというよりも何かを放棄していたように映った。それがセレスティーヌの言葉に瞠目し、困惑し、一瞬視線を逸らそうとして、それでは逃げになると思い知る。なんとかセレスティーヌの目を見て、決意と不安のなかで揺れ動く彼を、セレスティーヌはただ真っ直ぐ見つめていた。誰よりも何よりも、人間らしい顔をしていた。
「……うん」
そうやって照れ臭そうに笑う彼は、不格好ではあったけれども。成人男性には似つかわしくない幼さもあって、滑稽に映ったかも知れないけれども。
セレスティーヌが尊敬している修復士サミュエルに見えた。
「ねえ、わかったんだ。セレス、きっとこの本はね」
サミュエルがそう言うが早いか、世界に光が満ちていく。セレスも知っている。これは修復が完了したときの光だ。間もなく世界は真っ白に塗り替えられて、新しいページを刻んでいく。
「修復が完了した……!? この本の思いとやらがあなたにはわかったのですか」
これまでだんまりを命じられていたアルベールも、さすがの事態に口出しする。セレスティーヌも咎めることはなかった。
「うん。この本はぼくの背中を押していてくれたんだって」
「サミュさんを?」
「セレス。きみは語り手がいないくらいでって言ったよね。だから気付けたんだ」
光の色が濃くなっていく。重ねた両手から熱が伝わっていく。冷えきっていたサミュエルの両手は、少しずつ体温を取り戻していた。
「伝えたいことなんて、なかったんだ」
「ない?」
「うん。ぼくに贈る言葉なんて、もう要らなかった……ぼくは、前に進めばいいと」
悪夢と事実がない交ぜになった、サミュエルの抱えた新聞の世界。歪みきって真実が埋没したそれを、そのままに、サミュエルは受け止めた。
笑う。光が増すなかでもその色だけははっきりわかる。憑き物が落ちた彼の姿を見て、セレスティーヌもまた安堵した。その手の温もりが確かな証だった。
「ありがとう。セレス」
その言葉を、セレスティーヌは忘れない。
***
サミュエルは夢を見た。浅い眠りのたびに首を絞められる、繰り返していた悪夢。今までは怨嗟にうなされていた声が、その日はまったく聞こえない。
何もない。ただ、在りし日の家がサミュエルの前に佇むだけ。彼の記憶の残像。
穏やかな日差しに、静かに流れる時間。喧騒も狂騒も存在せず、無音の中にあるかつての故郷。そのひとつ。
「……ああ、やっと」
黒色の悪夢から素朴な色合いの世界へ。もう戻っては来ない光景を、サミュエルはようやく取り戻した。
【六冊目:修復完了】
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