七冊目『エナメル・シュー全集』

道化師(1)

「つまるところ、私は踊らされていただけなのでしょうか」


 神妙な面持ちでアルベール・ラファイエットは心境を吐露する。場所はリュミエール国立図書館、修復士サミュエルとその助手セレスティーヌがいる書庫。一区画を間借りするように築かれた机という名の城は、第三の客人をもてなすほどの広さはないが。

 サミュエルとセレスティーヌが向かい合って作業をする机に、自ら椅子を持参でやってきた。『リュミエール・タイムズ』の一件があってから、アルベールはサミュエルのもとを訪ねることが増えた気がする。


「そんなの、ぼくに聞かれたってわかんないよ」

「そこをなんとか」

「いやなんとかってどうするんだ」

「本と向き合うことで人間的成長をあなたが遂げたと言うのなら! このアルベール・ラファイエットも然るべき成長を遂げて当然ではありませんか」


 横柄であり劇場型でもある言い回しは健在だが、すぐに我に返ったように「……はあ」としょげてしまう。どうやらサミュエルが修復士として大切な「何か」を会得し、仕事にも精が出ている部分に思うところがあるらしい。都度、「私には何が足りないのだろうか」とお悩み相談にやってくる。


「アルベールさん、修復のお仕事がうまくいかないのですか?」

「うまくいかないというか」


 気をきかせてセレスティーヌが質問すると、アルベールは大袈裟なまでにがっくりと肩を落とした。表裏がなく感情表現がジェスチャー含めてわかりやすいのは、彼の人間的な美徳である。


「修復自体に問題はないのですよ。家系図のように真っ白になることはありません。ありませんが」


 アルベールがちらりと鞄をみやる。肌身離さず持っていると噂の家系図は、どうやら本当にそこにあるらしい。


「何も得られないのです」

「……得られない?」

「なんというべきか……サミュエル・ジュブワがあの新聞の世界で得たような気付きが、学びが。何度本を治しても私には感じられないのです」


 本の気持ちがわからない。あるいは過度に干渉しない。修復は修復、ただ物を直すように本もまた事務的に治すべきである――かつてのアルベール・ラファイエットならそんな立場を取っただろう。だがしかし、恐らくは家系図での失敗から、彼は苦悩している。


 アルベールは鞄から別の本を取り出した。家系図ではない。なかなかに年季の入った、変色して元の色がわからないハードカバーの一冊だ。


「それは?」

「『エナメル・シュー全集』。今回私が治す予定の本です」


 セレスティーヌには聞き覚えがあった。稀代のコメディ作家エナメル・シュー。そのふざけたペンネームの通り、滑稽であり風刺のきいた喜劇を書くことに長けた人物だった。確か没後五十年とかで、書店で特集も組まれていた気がする。

 セレスティーヌ自身はエナメル・シューの本をすべて網羅したわけではない。代表作である『我が永遠の闘争』は読んだことがあるが(闘争と逃走を掛け合わせた喜劇である)、社会風刺に溢れた文を幼い頭では理解しきれなかった。大人になったらもう一度読みたい、というかある程度の社会的常識を備えた大人にこそ読んでほしい一冊だろう。


「本を治すには問題ないんだろう? じゃあ治せばいいじゃないか」

「それではいけないのです!」


 サミュエルが驚きで目を見張るほどの大音声が図書館に響いた。「図書館では静かに」という当たり前のルールが、アルベールには笑えるほど通用しない。


「それではいけないのです……そう思っていたのはあなたでしょう」

「まあ、きみの修復のやり方は好きじゃないけど」


 サミュエルは厄介そうな顔をした。


「だからってぼくの考えを押し付ける気もないというか」

「いいえ。私が納得できません」

「いや納得なんてしなくてもいいから」

「私は修復士でいてはならないのです!」


 それは、今まで聞いてきたアルベールのどの叫びよりも切実で、痛切なものだった。男は糸が切れた人形のように全身から脱力する。普段はいからせている肩が所在なさげにしていた。


「私は名家ラファイエットの人間……だからこそ、私は優秀でなくてはならない。ただ本を治し、数を積み上げるだけでは……それではきっと、私はあなたに劣ってしまう」

「んー、そうかなあ。ぼく、どっちかと言えば厄介者扱いされてるけど」

「サミュさんがそれを言うんですか」


 正確に言えば変わり者として認識されている。ルーズで気ままなサミュエルに、間違っても世間一般の仕事なんてできるわけがない。セレスティーヌはそう確信していた。

 しかし、その答えではアルベールは納得しなかったようだ。


「私は成長しなくてはならない。優秀な修復士であるために。だからその手掛かりを……サミュエル・ジュブワ、あなたから見つけたい」

「つまり、サミュさんに本の世界に付いてきてほしいということ、ですか?」

「やだよそんなの。ぼくだって暇じゃないんだ」


 普段なら絶対に聞くことのない台詞だが、サミュエルに時間的ゆとりがないのは事実である。修復士というものにはおいそれとなれるものではないし、一人辺りの仕事は山のように積んである。

 それでもアルベールはめげなかった。


「……では。この本の修復に立ち会ってもらえたら、あなたが今抱えている仕事の三割を肩代わりしましょう」

「オーケーだセレス行こう」

「サミュさん!?」


 結局サミュエルは楽をしたい人間である。渋っていた取引をあっさりと承諾したことに、セレスティーヌは嘆くしかなかった。

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