運命はロマンスグレー(5)

「君に見せたいものがあるんだ……ミレイユ」


 呼吸を乱し、ベレー帽も大きく傾いていまにもずり落ちそうだ。汗ばんだ身体に白いシャツが張り付いて、サスペンダーが肉に食い込む。みっともないと形容するにふさわしい様子で駆けつけたモーリスはしかし、全力疾走の痕跡を隠すことなくキャンバスに手をかけた。

 セレスティーヌはこの絵を知っている。モーリスがミレイユを思って導きだした花の名を知っている。これは本の展開通り、白い花畑とミレイユを描いたものだ。

 けれど何故だろう。セレスティーヌはまるで別物の物語に思えてならなかった。


「まあ……!」


 目尻に涙をうっすらと浮かべて感動するミレイユも。熱い思いを込めてキャンバスを贈ったモーリスも。このあとの台詞も。セレスティーヌはそらんじることができる。

 だというのにそこには血肉が通っている。セレスティーヌが追体験してきた本の世界ではない。モーリスを追いかけたからこそ、熱いものがこみあげてくる。


「君がいつかこの花を探しに行けるように、俺はここで絵を描き続ける。君の国にも名を轟かせる絵師になってみせる。だからミレイユ」


 お幸せに。


 あまりにまっすぐであり、あまりに純情であり、……あまりに拙い愛の言葉だった。セレスティーヌの両目から、はらりと涙がこぼれる。


「……ありがとう、絵師様。私は幸せ者です」


 幸せになってみせますとも。あなたが願ってくださったのだから。


 ミレイユが赤く染めた目を優しく歪ませて、ふわりと微笑んだ。絵画にして切り取ってしまいたくなるほど美しく、完成された名シーンだ。

 フェリーに向かう後ろ姿も、デッキから大きく手を振ってくれた姿も、セレスティーヌとサミュエルはその一部始終を見届けた。身分違いの恋物語――そう片付けるには惜しい、複雑な愛の話を。


「どう、して」


 セレスティーヌは静かに呟いた。涙が止まる気配はなく、声はどうしても上擦ってしまう。抑えのきかない感情に戸惑いつつも、セレスティーヌはハンカチを取り出して涙を拭って続けた。


「何も……何も変わっていません。物語をなぞったとおり、新しい展開も台詞もなかったのに、どうして……私、涙が止まらないんです」


 今までで一番感動しているんですと、セレスティーヌは言った。


「私が想像して読んでいたものよりも、ずっと、心が通っていました。モーリスさんの想いを追いかけたからでしょうか、より訴えるものがあって」

「彼の心に共感したから?」

「追体験できたから、かもしれません」


 追体験。そう言うのが一番近いとセレスティーヌは結論付けた。サミュエルは眼鏡のつるに手を添え、ぶつぶつと何か言っている。


「追体験……ね」

「サミュさん?」


 どうかしましたか、とセレスティーヌが問う。しかし彼女にはなんとなく返ってくる言葉がわかっていた。サミュエルは案の定、とらえどころのない笑みを浮かべて「なんでもないよ」とだけ言った。予想通りだ。

 ……少し心配だった。サミュエルとのパートナーシップは数ヶ月程度のものでしかない。それでも見えるものがある。歯切れの悪いサミュエルは異質だとわかっていたし、何か誤魔化すような素振りもあった。


 サミュエルは何かを隠している。セレスティーヌには教えてくれない何かを。


 別に、秘密は誰にでもある。セレスティーヌだってリシュリュー家のことを話していないし、お互い様だ。すべてを打ち明けて欲しい、などと偉そうなことを言えるご身分でないことはわかっている。

 ただ、先の苦しんでいた件もある。それに関係がありそうな彼の秘密が、心配だった。


「サミュさん、戻ったらさっさと休みましょう。暖かくして眠れば体力も戻ります」

「甘いものも食べたいな。セレスあれ作ってよ、ゲロ甘な玉子焼き」

「あれは練習中だと言ったじゃないですか!」


 だからこうやって気づかないふりをして、身を案じることが彼女には最善に思えた。


【五冊目:修復完了】

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