運命はロマンスグレー(4)
サミュエルは何度となく肩で呼吸を繰り返す。心臓を握ろうとする指先は少しずつ血色を取り戻していた。セレスティーヌは祈るように、その手で添い遂げる。
「恋愛っていうのは、なんてめんどくさいんだろうね。大好きな彼女の笑顔が見たいなんてもっともらしい理由をつけてさ。結局自分が苦しんだらわけもないだろうに」
「けれどそれが、人を愛するということです」
サミュエルが目を丸くする。肩の呼吸が一瞬止まった。
「愛?」
「ええ。モーリスさんは、ミレイユさんを心から愛しているんでしょう」
「恋じゃなくて?」
「きっと彼の心は、恋よりも愛に近いのだと思います」
わからないな、とサミュエルが呟く。皮肉でもなんでもない。不可視のもの、未知のもの、理解の及ばないもの……そういった「不明瞭」なものへの問いかけだった。
「愛と恋は違うの?」
「私は違うと思います。どう違うかは、人によって解釈が異なりますけれど」
「ふうん……」
納得するような、しかし腑に落ちないような。サミュエルはくすぶった火種のように不可解な表情になった。たくさんの本を治してきた彼にとって、恋愛を題材とした本は初めてではあるまい。だがその当惑は、確かにセレスティーヌにも伝わってきた。
愛を知らなくても、本は治せる。サミュエルは愛を知らないのだろうか。
「セレスは」
サミュエルが口を開く。が、その次の音は出てこなかった。
セレスティーヌには不思議でならなかった。彼の反応が今までとは違うものだったからだ。自堕落、気だるげ、けれど本を治すことには真摯に向き合うサミュエルという修復士が、セレスティーヌの知っているサミュエルだ。しかし今の彼は言葉にするのを躊躇っている。
「いや、うん、いいや。忘れて」
「……はあ」
歯切れの悪い言葉だ。サミュエルはその躊躇った言葉を呑み込むことに決めたらしい。深追いするほどセレスティーヌもずけずけした性格ではない。彼が言わないと決めたのなら、追及しようとは思わなかった。
愛を知らないと言うのが、少なからずセレスティーヌの胸にちくりと刺さったけれど。
「とにかく。モーリスがミレイユに対して何をしてやれるか、苦しんでるのはわかった。ミレイユの喜ぶ顔を見るために、何をするのがいいのかわからないと」
胸をかきむしるように掴んでいた彼の指先は、すっかり人間らしい血色に戻っていた。脂汗を浮かせていた額も青筋が立っていない。セレスティーヌは安堵した。
「けれどその答えを見つけるのは、モーリスさん自身だということですね」
「そ。セレスも勝手がわかってきた?」
「勝手、という言葉は本意ではありませんが」
手出し無用ということはわかりました、とセレスティーヌは答えた。
修復士にできることは、その本の思いを受け止めること。サミュエルに何度も何度も言い聞かせられてきた。本当の意味で言葉を呑み込めたとは言えないが、セレスティーヌにも修復士が背負うべきなんたるかは、輪郭だけつかめてきた気がする。
思いを受け止めるとは、口出しをすることではなく。しかし傍観することでもない。ただ聞くだけではきっと不足なのだ。
「ミレイユとの別れの日。またモーリスに会いに行こう。その場面を見届けることが、僕らにできる最善だ」
「はい」
『ラヴィアンローズ』の結末、多くの読者が涙した名シーンだ。セレスティーヌも無論読破したし、心臓を掴むようなラストに号泣した記憶がある。無粋な話、セレスティーヌはモーリスの取る行動をすでに読んでいる。
しかしそれは、この本を治すことにはならない。汚れてまで訴えたい思いは、劇的なラストに涙することではないのだろう。怪盗ルナールのようにシナリオに背いた動きをすることもある。
では何が変わるのか? セレスティーヌは別れの日までそわそわとしていた。
***
「君に見せたいものがあるんだ」
からはじまる『ラヴィアンローズ』最終章は、嫁ぎ先の国に向かうフェリーの前が舞台だ。純白の花嫁衣装……ではなく品の良い水色のワンピースを着たミレイユに、モーリスが贈り物をする。彼女が大好きだと言った名も知らぬ白い花の絵を。空想の花畑を。その中心で微笑むミレイユを。
ミレイユは感涙し、「一生消えない思い出をありがとう」と、前向きに別れを告げる。モーリスは恋心を伝えず、愛する女の幸せを一枚の絵とともに願う――そんな結末だった。プレイボーイのあまりに純朴な愛情表現に、涙する人が続出だったという。
別れの日。舞台は同じ、フェリー前にはワンピース姿のミレイユ。モーリスは遠くから、大きなキャンバスを抱えてやってきた。
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