運命はロマンスグレー(3)

 ***


 彼女は花が好きだった。

 お高くとまった花ではない。川縁に咲いているような、ともすれば雑草として除去されそうな花を好んだ。屋敷の花瓶にはもっとばかでかい、ブーケにしたって余りある薔薇が活けてあるのにだ。彼女は深紅の薔薇が百万本咲いているよりも、名も知らぬ一輪の花が好きだという。


『だってほら、絵師様。宮廷にはない可憐さが素敵でしょう?』


 あぜ道のタンポポを好んだ。背の高い菜の花を好んだ。図鑑にも載っていない、矮小な白い花を好んだ。

 それこそを可憐と言って憚らず。無知なお嬢様だからこその妄言だと、はじめはバカにしたものだ。


『ねえ絵師様。絵師様ならば、たくさんの野の花を私に見せてくれるかしら?』


 私は探しにいくことができないから。

 そう呟いた彼女の、なんと寂しそうな横顔。大好きな花を摘むための散策が、彼女には許されない。整備された石畳の上をなぞるように進み、決まったルートを往復するだけ。ほんのすこしの横道も許されない。ゆえに彼女は、道端の花に恋い焦がれた。


 このとき、私はミレイユ・サンジェルマンに花を捧げたいと思った。私が花を描くことで彼女の世界が広がるならば、彼女が笑顔になるのなら。私はそのために筆をとろうと思えた。

 人が、この心を恋だと形容するのは簡単だ。何だっていい。恋だろうと愛だろうと憐れみだろうと、どんな名前をつけられたって構わない。名前なんて無意味だ。

 ただ、私はミレイユが笑っていてくれるなら、それだけでよかった。


『絵師様。私、ブローニュの家に嫁ぐことになりました』


 私が描いたタンポポをなぞりながら、ミレイユはある日唐突に告げた。別れを。


『隣国に住まいがあるので、そちらへ。……もう、絵師様の描いた花も見れなくなるのですね』


 何故だ。そんなことは嫌というほど理解している。伊達に十数年宮廷絵師をやってきたわけではない。貴族は政略結婚が当たり前。良い家と良い縁を結ぶのが行動原理である。気づけばミレイユと出会って季節が一巡りして、彼女も十六になっていた。

 私よりもずっと幼く、ずっと若く。そんな小娘に家の沽券が枷となってふりかかる。寂しそうに笑うミレイユの顔を見て、私は違うと叫びたかった。


 私はそんなミレイユの笑顔が見たいんじゃない。


『ねえ、結局、私は絵師様のお名前を呼ばないままでしたわ。私にとって絵師様は絵師様だから』


 名乗らなかったわけではないけれど、「絵師様」の響きを彼女は好んで使っていた。一度名乗った私の本名など、すっかり忘れてしまうほど。私も別に悪い気はしなかったし、絵師様といってひっついてくる小娘になかなか面白味を覚えていた。

 彼女から花が奪われる。私からミレイユが奪われる。

 その事実をすぐには受け入れられずにいた。何をすることが私を、否ミレイユを笑顔にできるのか、何をしても答えが見つけられなかった。


 正しい接し方もわからなくなってしまった。そうして私はミレイユと距離をとり、しかし彼女が隣国へ出立する日は確実に近づいている。

 野の花を愛でることができれば、きっとミレイユは自然に笑えるのだろう。では私は? 私は彼女にもう花を描けないのに。何をすればこのさざめきは沈静化する?


『……ミレイユ』


 君が「素敵な色ですね」と褒めてくれたロマンスグレーの瞳は、最早何物も見通すことができない。


 ***


「う、……ッ!」


 サミュエルが心臓をかきむしるようにシャツを掴んだのを見て、セレスティーヌはぎょっとした。公園のベンチで作戦会議をしていたときのことだ。

 うつらうつらと船をこぎだした修復士を横目に、座った姿勢のまま寝るなんてはしたない、と叱ろうとした矢先だった。穏やかな寝顔を浮かべていたサミュエルが、突然その顔を苦悶に変えたのだ。


「サミュさん!?」


 こんなサミュエルを見るのははじめてだ。余裕があるのかないのかわからないのらりくらりとした態度が一種のアイデンティティーにも思えた。激しい感情やネガティブなものは見せない人だと思っていた。

 胸を鷲掴みする指先は白く染まりつつある。額にも脂汗が滲み始めていた。尋常ではない。セレスティーヌはサミュエルの意識を取り戻そうと声をかける。


「サミュさん、意識はありますか、サミュさん!」


 体調不良の兆しは見られなかった。つい数分前まで普通に話していたくらいだ。痛みを隠している様子も違和感もなかった。初めての事態にセレスティーヌの不安も増幅する一方だ。


「ああ……なる、ほど」

「え?」


 絞り出すように紡がれたのは間違いなく、サミュエルの言葉だった。うっすらと瞼をあげて、セレスティーヌを見据えている。感極まってセレスティーヌは泣きそうになったが、彼の言葉を聞き逃すまいと傾聴する。


「モーリスは、苦しいんだ」

「……それは今のサミュさんと関係が?」

「まあ。気にしないで、もう落ち着くから」


 掠れてやや聞き取りづらいが、それでもサミュエルは口角をあげて答えた。無理をしているのが明らかな笑顔だ。セレスティーヌは彼の手のひらにそっと己の手を重ねる。ぞくりとするほどサミュエルの指先は冷たかった。

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