百万年のゆりかご(4)
「百年前の政治家、と仰いましたね」
「そう。現地に赴いて戦禍を目の当たりにし、政治で解決しようとした人」
「私の知る評論家の多くは……あまり肯定的に捉えてはいないようですけど」
オーギュスト・デューラーに関する書評は、政治史を学んだときに読んだことがある。百年前に国内で起こった紛争――ジーネ=クロワ内乱。国の辺境で勃発した民族紛争だ。
「私が読んだ書評は、彼を批判するものが多かったです。国の最果てに近い辺境のいざこざに、首都を離れて首を突っ込むのは何事かと」
「ちょうどその頃って、王位継承のゴタゴタがあったらしいね。首都はその処理で大分忙しかったらしいよ」
「……慌ただしい時期に政治を担うものが首都を抜ければ、非難を浴びるのも当然ということ、ですか」
セレスティーヌは深い溜め息をついた。
「では、修復というのは……オーギュストさんの評価を改める、ということですか?」
「それは無理だよ。世間一般の認識は易々と変えられない」
「ですがそれではどうやって負の感情を修復するおつもりで」
「要するに、まあ。カウンセリングだから」
そう言うとサミュエルは、蝋燭をふっと吹き消した。
「ひっえ!?」
辺りは真っ暗になり、セレスティーヌはすっとんきょうな声をあげた。突然のことに心臓がばくばくと音をたてる。
「サミュさん、どういうことですかっ! いきなり灯りを消すなんて」
「いやだって、そうしないと見えないし」
「見え……ッ」
サミュエルが指差すその先には、ぼんやりとした白い影。いわゆる亡霊の類のような、うっすらと宵闇に浮かぶ何かがそこにあった。
「――――ッ!!」
セレスティーヌが声にならない声をあげた。
「サミュさっ、ひっ、ゆ、ゆうれ」
「オーギュスト・デューラーでしょ? そんな怖がることないって」
のらりくらりと答えるサミュエルが心底憎らしいと、セレスティーヌは目尻に涙を浮かべて彼を睨み付けた。
「オーギュスト・デューラー……?」
「そうそう。ぼくがここに来たのは彼と話をするためだよ」
恐る恐るセレスティーヌが目を凝らすと、白いもやもやの輪郭がはっきりしてきた。歴史書で資料として出てくるような、一世紀前のトレンドらしい貴族服だ。男性でも女性でも、服の裾にこれでもかとフリルをあしらうのが当時の正装だった。普段着にはしたくないオレンジをまとう茶髪の男性こそが、肖像画で見たオーギュスト・デューラーその人なのだろう。
「本当に、この方が」
「本にしがみついて地縛霊もどきになっているのは、自身の不当な評価を呪っているからかい?」
サミュエルが亡霊に語りかける。普段と変わらぬ、間延びした声だ。軟体生物みたいにふにゃふにゃした青年の声でも、対面する亡霊はきっぱりとした態度で応じる。
「いいえ。私が望むのは、ただ……一人だけでも。私の知る真実を伝えたい、それだけです」
「それで本にとじこもって修復士を待ってたわけか。いいよ。ぼくは口下手だけど、人の話を聞くのは好きなんだ」
「ありがとう」
オーギュスト・デューラーはほんの少しだけ口許を緩めた。蓄えたひげの下から微笑が覗く。
修復士にできることは、サミュエルの言うとおり――その本がどうしても伝えたいことを「聞いてあげること」だ。それ以上のことはしてあげられない。本のために世界を変えるとか、世の中の
「あの内戦は……放置すれば敵国に侵略される。そんな危険を伴った争いでした」
「敵国……百年前でいうと、カルディミア王国ですか?」
「そうです。ジーネ族とクロワ族が争っていた土地はリュミエール皇国の辺境で、カルディミア王国に接する地域だったのです」
ジーネ=クロワ内乱は、宗教の違いから起こった紛争だった。同時期に前王が崩御し、王位継承で首都は大きく揺らいでいた。オーギュスト・デューラーの瞳が伏せられる。
「誰かが争いを止めなければ、混乱に乗じて王国が攻めこんでいたでしょう。ですが国内は次期皇帝を決めることに躍起になっており、辺境の情勢などてんで興味がなかった。私がやるしか、なかったのです」
「政治劇によくある勢力図だよね。派閥とかコネとかさ。ぼくには縁のないことだけど」
「オーギュストさんはそれで、戦地に……」
セレスティーヌはオーギュスト・デューラーの最期を思い、その無念さを想像し瞑目した。
「国のために動いたオーギュストさんが、不当な評価を受けてしまうなんて」
「皇帝のことを考えれば、残るべきとも言えたでしょう。ですがそれはもういいのです」
オーギュスト・デューラーの半透明な指先が、サミュエルの肩を撫でた。
「あなたに、伝えられた。私の本当の思いを」
「ぼくが修復士で良かったね、オーギュスト」
一切の皮肉でもなく、サミュエルはにっこりと屈託のない笑みを浮かべる。
「ぼくに出会うとね。もれなく二人がきみの真実を理解できるんだ」
サミュエルはセレスティーヌをちらと見やり、続ける。
「きみは一人でもいいと言ったけど、一人よりも二人の方が幸せだろう?」
「……ああ……あなたという人は、本当に……」
オーギュスト・デューラーの身体があたたかな光を放つ。サミュエルが本に潜るときに見せた光と同じ種類のものだ。サミュエルとともに修復の現場に立ち会って約三ヶ月。これが世界を離れるときの合図だと、セレスティーヌは学んでいた。
「オーギュストさん」
「お優しいお嬢さん。どうか、おこがましいが……ほんのひとかけらでも、私を……」
「ええ、覚えています。あなたの真意は、私の心にありますから」
真っ白に塗りつぶされた視界のどこかで、オーギュスト・デューラーの微笑みが見えた気がした。
「セレス」
辛うじて原型を止めているような、毒気を抜かれる柔らかい声。猫みたいな気だるさを
目映い光にぎゅっと目を閉じてから数拍程度の感覚だ。ゆっくりと
「サミュさん。……戻ったんですね」
「きみがあまりにも怖そうに目閉じてるからさ。失神したかと思った」
「怖がってなど、いません」
幽霊屋敷での失態を思いだし、情けない自分を守るために強がってしまう。その言葉のどこまでをサミュエルが信用するかはわからないが、セレスティーヌとしては素直に認めるわけにはいかなかった。家を飛び出し一人立ちしたい身としては、人様に弱い部分を見せるわけにはいかない。
対するサミュエルは、相変わらずのらりくらりとしている。
「でもきみ、震えてるよ?」
「そんなことは」
「手」
サミュエルが机に置かれた手を示す。本に潜るためにセレスティーヌが重ねた手はそのままだが、力が入って小刻みに震えている。それよりもセレスティーヌは未だに異性と手を重ねている、その状況が耐えられなかった。
「ひいッ!?」
セレスティーヌが慌てて飛び退く。そんなに驚かなくても、とサミュエルはきょとんと首をかしげる。
「きみ、そういうところよくわからないよね」
「な、何がですか」
「ぼくと手をつなぐことなんてもう慣れたでしょ? 三ヶ月経つし」
「それとこれとは、心の準備が違うのです」
「……そういうものなの?」
「そういうものですっ」
語気を強くしてセレスティーヌは否定する。顔に血が集まってくるような気がした。
「ともあれ一冊は修復完了ですね。さあ、まだ三冊残っていますし、迅速に参りましょう、ええ!」
「セレス、きみごまかすのが下手だね」
「わかっているなら触れないでくださいますか! サミュさんは無頓着すぎます」
赤い付箋の貼られた本の一冊が、新品のように真新しい輝きを放っている。「世界の偉人」と題されたその表紙には、どこか誇らしげな表情のオーギュスト・デューラーが描かれていた。
【一冊目:修復完了】
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