道化師(4)
答えは得ました、というアルベールの決意とともに、一行はサーカスのテントをくぐった。ド派手で下品にさえ思われるコミカルな配色。それを抜けた先にはイメージ通りの薄暗い客席とステージ……
ではなかった。
「なっ」
セレスティーヌは驚きのあまり絶句した。テントの中にはまったく想像だにしなかった、フィクションに満ちた世界になっていた。客席もステージもない。足元から一気に虹色に変色し、見回せばたくさんの登場人物が浮遊している。もちろん、『我が永遠の闘争』にこんなシーンは存在しない。
「エナメル・シューが書き連ねた物語たち、ですか」
アルベールが落ち着いた声で呟く。「想定してたの?」というサミュエルの問いに(彼もまた、動揺はしていないようだ。修復士だからこそ場数慣れしているのかもしれない)、アルベールは「ええまあ」と首肯する。
「エナメル・シュー『全集』である意味は、散々考えてきましたからね」
そういってアルベールは異空間を漂う
「あれは喜劇『紳士のお茶会』の主賓ジェルトーニ男爵。ダンタニアンは『商談成立』に出てくる女店主カデンツァの飼い猫です。それから二重人格の双子ピッピとトッピ、髭自慢の太っちょバルバロッサ、無知な箱入り娘カーラ・エンプーサ……」
アルベールが名を呼ぶたびに、思い思いの表情を浮かべて登場人物たちはくるくると回りだす。自分達の名を呼ばれて喜んでいるかのようだ。
彼はこの本を修復するにあたり、「人間的成長のための何かを得たい」と言っていた。彼の情熱がここまで一冊の本を掘り下げ、それと向き合おうとして来たのだとセレスティーヌは気づく。感情移入などしないと言っていたが、これもひとつの真摯な受け止め方だ。
……ただの修復士でいてはいけないと言っていたアルベールの言葉を思い出す。セレスティーヌには今なら、その意味がわかるような気がした。彼の貴族としての責任を思えば。
「今宵の演目はお楽しみいただけているかな」
見れば、いつの間にやら件の道化師が正面に佇んでいた。恭しい一礼は、しかし滑稽な容姿の道化師がすれば皮肉にしか見えなくなる。白塗りの面はやはり愉快そうに笑みを浮かべていたが、黒く縁取られた両目の奥は暗い光を宿していた。
アルベールは毅然と、凛と声を放つ。胸の徽章がきらりと光った。
「ええ。お招き頂きありがとうございます」
「私の忠告も聞かず、そのオモチャをつけてきたか」
道化師は目敏くアルベールの胸の輝きを捉える。細めた瞳には濁りが見てとれた。
「絶望の街に未来はない。定められた終演に向かって人々は生きていく。このサーカスはそんな人々に束の間のユメを見せるための、滑稽な茶番なのさ」
『我が永遠の闘争』の結末だ。貴族の圧政に耐えかねた街の人々は最終的に反乱を起こす。すべては貧しさからの解放、抑圧された権利を取り戻すために。しかし反乱のリーダー格が貴族との闇取引に応じ、己の待遇を約束されたことでコロリと寝返る。ハードでダーティな展開を喜劇として描いてしまうのが鬼才エナメル・シューというものだった。
道化師はナイフを三本出現させ、ジャグリングを始める。白銀の刃がファンシーな虹色の背景の中で異質さを放っていた。
「現実でもそれは変わらない。平民は支配階級に搾取され、無念のままにその生を終えていく。腐敗した貴族なんぞに何の希望を抱けようか」
朗々と語る道化師の言葉は、軽妙なジャグリングと同じだ。努めて明るいショーを見せているけれども、実際は危険性を孕んでいる。本当はそのナイフを喉元に突き立てたくてたまらないのに、皮肉で塗り固めた遊びに興じているのだ。
「貴族への不平不満。それが、あなたがこの世界を通して伝えたいことですか。本を歪めてまで伝えたかったことですか」
「……何?」
アルベールの言葉にジャグリングの手が止まる。右手にみっつ、ナイフが収まった。
「私は修復士です。あなたが何を思おうと、嘆こうと、怒ろうと。私にはそれを聞く義務などないし、歪んだ本を治しさえすればそれでいいのです。あなたに同調などしないし、あなたを批判することもしない。私が治しに来たのは本であり、
そして修復士アルベール・ラファイエットは、惚けた仮面の剥げかけた道化師に向かって告げた。
「あなた、エナメル・シューでしょう?」
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